「妻からはもう政治家はやめてと言われている」枝野幸男氏が落選後の胸中を独占告白 政治家人生に「悔いはない」

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 死屍累々の惨敗を喫した「中道」では、立憲民主党を創設した枝野幸男氏(61)さえも議席を失った。東日本大震災があった官房長官時代、“エダノ寝ろ”と国民に親しまれた男は、猛烈な「高市旋風」を前に何を感じたのか……。落選後、初めて語った“敗戦の弁”。

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「いろいろな人と相談しなければならないし、今後のことはゆっくり考えます。引っ越しは、昨日議員会館がようやく終わったところ。15年以上使ってきた職場でしたが、4日以内に終わらせなければならないルールなので、感慨に浸る余裕などありませんでしたよ」

 衆院選から5日後の2月13日。枝野幸男氏は、のぼりなどの選挙グッズが散乱したままの選挙事務所で、33年間守ってきた議席を失った戦いを振り返った。

 初当選は1993年。細川護煕氏率いる「日本新党」の公募に応じた。選挙区となったのは旧埼玉5区(大宮市など)で、看板・カバン・地盤、いずれもないところからのスタートだった。

 以降、「新党さきがけ」「民主党」「民進党」と野党を転々。2017年に、「中道改革連合」の前身となる「立憲民主党」を立ち上げた。その後、立憲は衆参で180人以上の国会議員を擁する大所帯に発展した。

「覚悟は決めていました」

 自身は選挙に強く、“積年のライバル”と言われた牧原秀樹元法相相手に7連勝の11期連続当選。だが、今度ばかりは「高市自民党」に風が吹き過ぎた。

 元さいたま市議の新人・井原隆氏に約1万4000票差をつけられての敗北。敗因は「力不足に尽きます」と振り返る。

「11期連続当選とはいいますが、野田(佳彦)さんみたいに毎回のようにダブルスコアで勝ってきたわけでもない。足腰が弱っていたのでしょう」

 12日間の戦いの最中は、何とも言い難い“気持ち悪さ”に苛まれたという。

「街頭ではいつもと変わらない手応えを感じるのですが、マスコミから出てくる情勢調査の数字は終始厳しかった。終わってから気付きましたが、国民に分断が起きている最中の選挙で、いつも以上にアツい声援をいただいていた。だから、数の上で負けている実感が湧かなかったのです」

 実際、ビラを受け取ってくれる人は明らかに減っていたという。

「覚悟は決めていましたので、投開票日の4日くらい前に、妻には『引っ越しになるかもしれない』と伝えていました」

「足腰が弱っていた」

 とはいえ最大の敗因は、突如結成された「中道」から出馬を余儀なくされたことだろう。

 枝野氏は立憲では最高顧問の立場だったが、公明党との合流は野田執行部が決定した。合流した判断の是非やこれからの中道の展望についていくら尋ねても、「今の執行部に聞いてください」と言うのみで、終始、言及することを避けた。

「急転直下の解散ではありましたが、初当選した最初の選挙も想定外の内閣不信任案可決から始まりました。東日本大震災や『希望の党』も経験した。代議士である以上、いつ何時でも解散総選挙があると備えていなければいけません。民主党が大敗北を喫した2012年の選挙も勝ち上がってこれたわけですから、いつの間にか足腰が弱っていたというしかない」

 悔しさはないかと聞くと、

「そこまでないですよ。これも天命でしょう。それよりは、これから新たに職探しをしなければならない秘書たちやこれまで応援してくれた支援者の方々に申し訳ない気持ちでいっぱいです」

 高市早苗首相に対しても、

「今は一有権者の立場。論評する資格はありません。ぜひ国民の期待に応えてほしいと思っていますよ」

 とエールを送る。ただ高市氏が、予算委員会委員長だった枝野氏に対し、「大臣が答えればいいところを、なんでも自分に答弁するよう求められて大変だった」と不満を述べ、解散の理由の一つに挙げている点についてはこう反論した。

「選挙向けの発言に過ぎないですよ。私を替えたかったら、解任決議を採ればよかっただけのことですから」

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