仏貴族とピストルで決闘、驚愕の浪費、私財で文化施設建設…パリの伝説的日本人「薩摩治郎八」が徳島を「この世の楽園」と呼ぶまで【没後50年】

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資材を投じてパリの「日本会館」を建設

 昭和4(1929)年5月10日は、彼の生涯の“輝ける日”だった。パリの“大学都市”に、日本人留学生のための日本館を、私財を投じて建設した、その開館式の日である。

 当時のドメルグ大統領をはじめとする日仏1000人の貴顕を前に、彼は一世一代の演説をぶち、レジオン・ドヌール勲章(オフィシェ)を受章した。その建設費がいくらだったのか、彼は聞かれても答えたことはなかったが、『半生の夢』のなかでは「現在(昭和26年)の金で約2億円」。

 レジオン・ドヌールの赤い略綬が胸を飾ることになったが、この会館の建設費も彼がかせぎ出したわけではない。どうやら、パリで治郎八さんが盛名を馳せれば馳せるほど、実家の財産はやせ細った様子だ。

 昭和13(1938)年、帰国していた彼は、翌年、第二次欧州大戦の火蓋が切られると、次々と引き揚げてくる在留邦人と入れかわるように、「第二の故郷」フランスへ「帰国」した。血の気の多い彼は、戦時中、レジスタンスまがいの活躍もしたらしい。

 そして、戦後―――。結婚生活5年後に胸を患い、療養生活を送っていた千代子夫人が、昭和24(1949)年に故国で息を引き取ったとき、薩摩さんは所在不明だったという。それが、昭和26(1951)年、突然、帰ってきた。

「ここで倒れたのは幸せだ」

 元駐仏大使・萩原徹氏(外務省顧問)によると――、

「戦後、私がパリ在外事務所長だった時代(昭和25~27年)に、日本館の館長になりたいというお話がありました。パリにとどまりたいお気持もあったようでしたが、当時は、日仏の国交も回復していないし、英国人が館長でした。そのために、日本人に管理権を返す話もうまくいかなかったのです。そのころ、一緒に暮していたフランス人の看護婦とも別れられたようでしたし、そんなことで日本に帰られたと思います」。

 その萩原さんが、彼を評して、「31、2歳までに、生涯にすべきことを全部なさった方ということでしょうか」といった。

 薩摩さんの徳島での暮しは、趣味的な随筆を書くほかには、ヴェルレーヌなどと名づけたネコたちを可愛がり、テレビを見たり、ラジオを聞いたり……。利子夫人は、そんな夫のことを、

「徳島の風土が好きな人でしたね。『ここで倒れたのは幸せだ。みんな親切で、空も明るいし、星も見える。まるでこの世の楽園だ』といっていました」

 献身の妻への感謝が、そんな表現になったのだろう。

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