94年「銀行支店長射殺事件」で“拳銃を持った老人”はなぜ出頭したのか 実行犯を明かさぬまま逝った男の裏街道人生
明らかに“実行犯”はない
近藤が持っていたレディスミスの線条痕は、支店長射殺の現場に残された銃弾と一致した。だが、近藤が射殺の実行犯である可能性は低かった。捜査関係者の話。
〈「弾は地面から約160センチの高さで水平に発射されているのだが、近藤の身長は160センチ程度。つまり近藤が撃ったとしたら頭の上に拳銃を乗せて構え、眉間を一発で撃ち抜いたことになる。まずそれは不可能だ。マンションへの侵入も、暗証番号を適当に押したらドアが開いた、といっているが、マンションには暗証番号はない。近藤は侵入すらしていないのではないか」〉(「週刊新潮」1994年12月8日号)
近藤が「進んで自供」した理由のヒントは“口の固さ”にあるようだ。A医科大学の公判で「不正入試で集めた金のお相伴に与っただけ」と人を食ったような供述を繰り返し、共犯者をかばい通した“実績”である。出所後に借金が膨れ上がっていたことも“仕事”を引き受ける動機として十分だった。消息筋の話。
〈「犯行直前の9月7日に近藤がわざわざ支店長に面会を要求し、犯行日をA医科大学事件と同日に設定したのも、彼の犯行を印象付けるためだったと思います」〉(同)
近藤はA医科大学事件の時、「原田博公」のほかにも「松永義男」の偽名を使っていた。支店長射殺事件の後、住銀頭取が受け取った脅迫状のイニシャルは「M・Y」である。偶然といえば偶然だが、近藤に目を向けさせる意図を深読みすることもできた。
服役中に発覚した別の襲撃事件
案の定というべきか、近藤はその後の事情聴取で“本当はやっていない”、“競艇場で知り合った4人組の男にたのまれて、銃を調達しただけ”などと繰り返し捜査官を翻弄した。
平成7年11月、実行犯が見つからないまま、近藤は銃刀法違反で懲役7年の判決を受けた。服役後も捜査官の聴取は続けられたが、近藤との接見を続けていた担当弁護士は、相変わらずの様子を証言している。
〈「“言いたくないことは言わんでいいが、いい加減に話したらどうか”と捜査員が尋ねると、“おまわりさん、さっきはしゃべらんでいいと言ったばかりだがね。そんなに態度が変わったら困るがや”と煙に巻いているそうです」〉(「週刊新潮」1997年8月14・21日号)
当時、近藤はA医科大学事件の手記を執筆していたというが、定かではない。一方で1999年には、別の襲撃事件への関与を認めた。1993年2月26日、当時のJRA理事長・渡辺五郎氏が路上で男に襲われ、全治1週間程度のけがを負った事件である。
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