「お金はどうでもいいの。お仕事さえできれば」長者番付の常連から借金6000万円まで、大女優「淡島千景さん」の役者一筋人生

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橋田壽賀子さんらが証言

第1回【「正座しても背筋がピーン」、死去1カ月半前に「家でステーキ」…87歳で死去した淡島千景さん、遺作が「渡鬼」になった“余程の事情”】を読む

 昭和を代表する女優、淡島千景さんが87歳で死去したのは、2012年2月16日のことだった。タカラジェンヌを経て映画やドラマ、舞台で活躍し、森繫久彌さんと共演した「夫婦善哉」をはじめ代表作は数知れず。「お仕事さえできればお金はどうでもいい」と語るほど、生涯かけて芝居に打ち込む女優人生だった。

 淡島さんの闘病生活や役者としての実力を伝えた第1回に続き、第2回では決して楽ではなかった晩年の生活について伝える。崩れた契機は、母親の跡を継ぐ形で淡島さんのマネージャーとなった垣内健二氏の死去だったというが――当時の「週刊新潮」は、「渡る世間は鬼ばかり」脚本家の橋田壽賀子さん(2021年没)ら関係者から、貴重な証言を得ていた。

(全2回の第2回:以下、「週刊新潮」2012年3月1日号「『膵臓ガン』入院費用も借金だった『淡島千景』」を再編集しました)

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淡島さんのために役を設けた

 母親の跡を継ぎ、淡島さんのマネージャーとなった垣内健二氏は2010年に亡くなった。脚本家の橋田壽賀子さんもこう証言する。

「淡島さんは、生活費にも困っているというお話でした。でも、まさか現金を差し上げるとか、そんな失礼なことはできませんからね。石井さんと相談して、『渡る世間は鬼ばかり』に出ていただいて、出演料を多めに出しましょうということにしました」

 橋田さんと淡島さんの付き合いも古い。橋田さんが続ける。

「垣内さんの母親、(垣内)田鶴さんも淡島さんのマネージャーをやっていました。私が松竹の脚本部に入ったのは1949年。その頃、私は先輩ライターにイジメられていた。そんな時、田鶴さんが『初の女性ライターとして松竹に入ったのだから、淡島主演の映画の脚本を書かせてあげたい』と言って下さったのです。しかも、一緒に淡島さんの御宅に伺ってね。私は淡島さんの書生のようなものでした。コタツに一緒に入ってみかんを食べながら、脚本のためにお話を伺う日々を送ったのです」

 淡島さんと田鶴さんは、橋田さんの恩人というわけである。

「私は嫌いな役者は作中で出張させたり、死なせたりしていましたが、『渡鬼』史上初めて、俳優さんのために役を設けました。これで少しは恩返しができたかなと思っています」

ホテル経営に失敗し家を失う

 かつては静岡県の熱海でホテルを経営するなど、実業家としても知られた淡島さん。昭和40年代までは、毎年のように長者番付にその名を連ねていた。本来ならば、大変な資産家のはずだ。お金に困るなんてことがあるのだろうか。

 先の橋田さんは、

「淡島さんは、いつもケラケラ笑いながら『私はお金はどうでもいいの。お仕事さえできればね』とのん気に語っていました。心が豊かな方だったのでしょう」

 と証言するし、淡島さんの知人はこう語る。

「初代マネージャーの田鶴さんとは宝塚時代からの付き合いで、淡島さんは彼女と二人三脚で大女優になった。母親同然に慕っていました。ただ、お金には無頓着でしたね。決して贅沢な生活をしていたわけではないものの、昔は買い物をしても、お店には後から田鶴さんがお金を届けていたくらい。ホテル経営も田鶴さんに勧められただけで、実際の経営にはタッチしていませんでした」

 1964年、ホテル経営は見事に失敗。淡島さんは、家屋敷を失った。1968年、田鶴さんが亡くなると、その後を継いだのが、息子の健二さんだった。

「健二さんも身内同然で、母親の時代と同じでお金の管理は全て任せていた。健二さんが亡くなる数カ月前には、住民税を滞納して自宅の土地と建物を差し押さえられています。健二さんが病に倒れ、住民税の支払いが滞ったというのが真相のようですが、彼女自身はそれほどお金に無頓着な人でした」(淡島さんの知人)

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