【豊臣兄弟!】秀吉は浜辺美波「寧々」に惚れて結婚したのか? 戦と違って恋愛は突き進められなかった戦国結婚事情
当人たちの意志は関係なかった
では、どういう経緯で藤吉郎は寧々と結ばれたのか。2人を結びつけたのは、寧々に読み書きや学問などを指導していた「養雲院殿」という女性だとされる。
前出の『明智軍記』によれば、桶狭間合戦の翌年、藤吉郎は清洲城の塀の修理事業を鮮やかにこなして信長に評価され、それを機に、信長の馬廻衆だった木下雅楽助の寄子(寄親=この場合は木下雅楽助=の庇護下の武士)になったという。木下藤吉郎と名乗るようになったのも、雅楽助の苗字をもらってのことだった。
養雲院殿はこの雅楽助の妹である。岡山県史第25巻所収の『森家先代実録』には、養雲院殿が藤吉郎を見込み、夫の那古屋敦順をとおして、浅野長勝に寧々と藤吉郎の結婚を勧め、信長への執り成しまでしたと書かれているそうだ(黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』角川選書)。
ここからわかるのは、2人の結婚が当人たちの意志とは関係ないところで進められたということ、そして、いよいよ結婚するにあたっては、主君たる織田信長の承認が必要だったということである。つまり、この時代の結婚とは、家と家とが関係を強化する必要性など、当人たちの意志や事情を超えた周囲の状況や思惑によって決まるもので、さらには主君の承認も欠かせなかった。
仮に藤吉郎が「わしは侍大将になって、寧々殿と祝言を挙げるのじゃ!」という思いを抱いていたとしても、そんなことは一顧だにされず、まったく別の力学が働いて結婚にたどり着くものだった。
恋愛結婚説の矛盾
ところで、秀吉と寧々は戦国時代においては極めて例外的な恋愛結婚をした、という記述も散見される。その場合は、結婚時期に永禄4年(1561)説が取られている。すなわち、この時点では藤吉郎はまだようやく足軽に取り立てられたにすぎなかった。だから、寧々の実母の朝日殿は、身分差を理由に猛反発したが、その反対を押し切って藤吉郎は恋愛を貫いたという話になっている。
そういう伝承があるのは事実だが、藤吉郎と寧々が結婚した経緯をたどればたどるほど、2人の結婚は、この時代の常識に沿って、仲介者が存在して、当人たちの意志を超えて決定され、その後に主君の承認を得たもののように思える。そもそも永禄8年説を採用するのであれば、身分の違いを理由に寧々の母が反対した理由も失われる。
では、2人の祝言はどのように行われたのか。浅野家に伝わる史料と『森家先代実録』とでは、内容が異なっている。浅野家の史料では、段取りを整えた人物の名として、浅野長勝の兄(または父)の浅野長季、大橋重賢のほか、柴田勝家や前田利家という名前も挙げられている。また、後者によれば、前出の那古屋敦順夫妻が、信長に結婚を承認してくれるように働きかけたという。
その後、部類の女好きとして知られるようになる秀吉のことである。寧々にほれ込んだこともあったかもしれない。だが、その気持ちを最優先すれば、当時の社会秩序を乱してしまう。やはり見えてくるのは、秀吉と寧々の結婚も、当時の武将たちが最も大切にした、みずからの領国と家を守るという目的のもとで、家同士の利害を優先した結婚だったということである。






