【豊臣兄弟!】あまりに先進的で突飛… 「小牧山城」に見る信長の専制的性格
尾張統一前に築いた城なのに
永禄3年(1560)5月19日、桶狭間合戦で電撃的な勝利を遂げ、敵将の今川義元(大鶴義丹)を討ち取った織田信長(小栗旬)。翌日、兵士たちが獲得した敵将の首を検分する首実検が行われ、藤吉郎(池松壮亮、のちの羽柴秀吉)と小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)の兄弟も恩賞を賜った。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第4回「桶狭間!」(1月25日放送)。
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続く第5回「嘘から出た実(まこと)」(2月1日放送)では、時代が少し下り、目下の敵は美濃(岐阜県南部)の斎藤家になっている。このため信長は永禄5年(1562)、今川家から独立した三河(愛知県東部)の松平元康(松下洸平、のちの徳川家康)と同盟を結ぶ。さらに翌永禄6年(1563)には、居城をそれまでの清須城(愛知県清須市)から、美濃を攻略するのに地の利がいい小牧山城(愛知県小牧市)に移す。
第5回では、小牧の地で藤吉郎と小一郎は、信長の馬廻衆(大名の近くに付き添い、護衛や伝令、決戦兵力などになる武士)に出世し、家族も愛智郡中村(名古屋市中村区)から呼び寄せて、それなりに広い家に住むようになるようだ。
ここで取り上げたいのは、信長のあたらしい居城、小牧山城である。この時点で信長は、まだ尾張(愛知県西部)一国も統一しきれていない。端から見れば一地方勢力にすぎなかった。だが、濃尾平野の真っただ中にそびえる独立丘陵の小牧山に築かれた城を見れば、信長が相当に先進的だったことや、壮大な野望をいだいていたことなどが、一目瞭然なのである。
戦に迅速に対応するための家臣の集住
ただし近年まで、小牧山城がそれほどの城とは考えられていなかった。たとえば、昭和54年(1979)に刊行された『日本城郭大系〈第9巻〉静岡・愛知・岐阜』では、次のように説明されている。
「永禄三年(一五六〇)五月、桶狭間の戦いで今川義元を倒した織田信長は、美濃の斎藤龍興と対抗するため、同六年、小牧山に新城を築き、清須から移った。尾張平野中央部にある標高八五mの小牧山は、平野を一望に見下ろす要害の地である。山を五段に分けて曲輪とし、堀と塁を造り、山麓に三重の堀と西部に総構えの長堀を設けた。/永禄十年、信長は、斎藤龍興の居城、美濃国稲葉山城を攻略して移り、小牧山城は廃城となった」
説明が非常にあっさりしているのは、当時はこれ以上に特筆すべきことがなく、4年で廃城になったことから、急ごしらえの臨時の城だと考えられていたからだ。
イメージが変わったのは城下町からだった。平成以降の発掘調査で、小牧山の南側に東西約1キロ、南北約1.3キロにわたって、本格的な城下町が展開していたことがわかった。そこは上級武士の居住区と思われる大きな地割、下級武士団の居住区と思われる短冊形の地割の密集地区、商家や職人の家が並んでいたと思われる街区など、職能ごとに居住区が分けられていた。
つまり、それまで人が住んでいなかった原野に一気に城下町を造成し、家臣はもちろんのこと、町人たちも集住させたのだ。これは近世の城下町の原型と考えられ、また、市場が開かれるなど、商業や経済活動も重視された。清須時代は家臣団が必ずしも城下にいなかった。清須に屋敷はあっても、それぞれが自分の所領に居所を構え、本拠としていた。だから、いざ戦うとき、家臣団を迅速に集めるのが困難だった。信長は小牧山への移転で、その状況を抜本的に改めようとしたのである。
『信長公記』には、清須から家臣団を移転させる際、信長が弄したユニークな策のことが書かれている。信長は最初、小牧山より18キロ北東の、標高292メートルもある二宮山への移転を告げたという。家臣団は困惑したが、そこで信長は、清須の北東11キロと近く、標高は86メートルで、川でも結ばれた小牧山に変更すると伝えたというのだ。それなら引っ越しも楽だと、みなよろこんだそうだが、信長が選んだ移転先は最初から小牧山だった。最初に高いハードルを示し、それを下げることで反対意見を封じたのである。
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