【豊臣兄弟!】あまりに先進的で突飛… 「小牧山城」に見る信長の専制的性格
信長の絶対性を強調する城の構造
また、城下町から山の中腹まで、幅約5メートルの大手道が250メートルにわたり、真っすぐに伸びていたこともわかった。当時の常識では、城の主郭部に続く道は何度も折り曲げ、敵が侵入しにくくするものだった。ところが、信長はあえて直線の道を選択し、その両側に家臣の屋敷を配置し、少なくとも中腹からの城の中枢の手前までは、自由な往来が認められていたと考えられる。
信長のねらいが解明されているわけではない。だが、中腹から上の主郭部は、それから右に折れ、3回屈曲して山頂に達する。そこは徹底的に防御されていたことから、信長はかなり広い範囲にわたって往来の自由を認める一方で、自身の居所をほかのエリアと隔絶し、自身の絶対性を強調したのではないだろうか。いずれにせよ、これは前例のない構造だった。
さて、真っすぐな道の先の主郭部である。平成16年(2004)以降の試掘および発掘調査を経て、本丸に該当する主郭の周囲には、2段および3段の石垣がめぐっていたことがわかった。
積まれていた石垣の高さは、その背後に詰められていた裏込石の分布範囲から推定されている。それによれば、最上段は高さ3.1~3.5メートルで、巨石が積まれていた。2段目は高さ1.2~1.3メートル、下段が同2.0~2.6メートル。ここ3年ほどで、主郭周辺の石垣の復元整備が進み、最上段が1.0~1.5メートル、2段目が0.7メートル、下段が0.6メートルの高さまで復元されたが、信長の築城時は、その2~3倍の高さだったことになる。
とりわけ巨石ばかりを積んだ最上段は、おそらく「見せるための石垣」で、味方であれ敵であれ、訪れた人に信長の力を知らしめ、威嚇するねらいがあったと考えられる。
城の中心部で庭園を愛でるのが信長流
永禄6年(1563)の時点では、日本各地の城は土塁と空堀による「土の城」が普通で、ごく一部の城に石垣が見られたが、それも多くは土留めのための石積みだった。そんな時代に信長は、居城の主郭を大規模な石垣で囲んだのである。石の多くは小牧山中から切り出した堆積岩で、それを加工せずに積んだ「野面積み」だが、その背後には、こぶし大から人頭大の石が0.7~1メートルほどの幅で入れられていた。これが裏込石で、雨水を浸透および排出させ、地震時には振動を吸収するためのものだ。
こうした石垣の構造は、近世城郭では常識だが、信長はすでにこの時期に、江戸時代以降と同じ積み方を導入していたのである。
主郭の南東の2段下では、信長の御殿だった可能性がある建物の跡も見つかった。また主郭東側では、幅が最大3メートルで長さ10メートルにわたる玉石敷と、そこに設えられた立石も見つかっている。明らかに庭園のあとで、堅固に防御された城の中心部で庭園を愛でるという、信長の城での過ごし方も見えてくる。
また、石垣で本格的に固められていたのは主郭周辺だけだが、東西約600メートル、南北約400メートルの小牧山全体が要塞化されていた。この時点で信長に、どこまで野心があったのかはわからない。だが、小牧山城を考察すると、先進的で、中央集権的で、専制的な信長像がおのずと見えてくる。
ところで、小牧山城にはもう1つの歴史がある。廃城になって17年後の天正12年(1584)、徳川家康と織田信雄の連合軍が羽柴秀吉との戦い、すなわち小牧・長久手合戦の際、ここに陣城を構え、大規模に改修した。先に『日本城郭大系』から引用した文中に「山麓に三重の堀」という表記があったが、これは家康が築いたものだといまでは判明している。
だから『豊臣兄弟!』では、この城はのちにもう一度登場するはずである。ちなみに、1つの城を信長と家康がそれぞれに利用した例は、小牧山城を措いてほかにはない。
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