【ばけばけ】“時の人”で親友とギクシャク程度じゃない 「小泉セツ」の悩みは深く暗かった

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「洋妾(ラシャメン)」と呼ばれるのが嫌だった

 セツは後年、ヘブンのモデルであるラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)の「洋妾(ラシャメン)」だと、すなわち西洋人の妾だと、後ろ指を指されるのが本当に嫌だった旨を明かしている。当時、西洋人の妾となると、日本人の妾よりはるかに偏見をもたれた。しかもセツはしばらくのあいだ、実際に「洋妾」と呼べる状況にいたから、なおさらだった。

『ばけばけ』のトキは、通いの女中としてヘブンのもとで働きはじめ、ある時期からたがいの心が通い合い、結婚することになった。つまり、トキが「妾」であった時期はない。ところが、セツは明治24年(1891)2月上旬ごろから、ヘブンのもとに住み込みで働き、間もなく事実婚の状態になった。つまり、当初は正真正銘の「洋妾」だったといえる。

 だから、『ばけばけ』の錦織友一(吉沢亮)のモデルである西田千太郎も、セツのことを日記に「ヘルン氏(註・ハーンのこと)ノ妾」と書き記した。また、ハーンの私生活を報道した6月28日付「山陰新聞」の記事からして、「ヘルン氏の妾」と表記した。2人は6月22日、松江城の内堀に面した北堀町の旧武家屋敷(現・小泉八雲旧居)に転居しており、このころには2人はかなり心を通わせ、事実上の夫婦に近かったのに、「妾」と記されてしまった。

 この年の7月26日から、ハーンと西田は杵築大社(現・出雲大社、島根県出雲市)の近くに逗留し、遅れて2日後にセツが合流した。それから10日ほど経った8月7日、3人は杵築にあったセツの縁者の家に招かれた。この日から西田は日記に、セツのことを「せつ氏」などと書くようになった。逆にいえば、ハーンの親友でセツとも親しく交際していた西田にして、それまではセツのことを「妾」と見ていたのである。街中の偏見はいかばかりだっただろうか、と思う。

「赤鬼が住むから近づくな」

 松江でハーンが住んだ界隈は、「赤鬼が住むから近づくな」といわれたこともあったという。西洋人が恐ろしい赤鬼にたとえられているのである。ハーンのひ孫である小泉凡氏はこう書いている。「明治の社会では、外国人はともすると、そうした得体の知れない存在だったのでしょう。それに来日したばかりの八雲が知事に次ぐような高給取りだったことが、地元の人々に複雑な感情を招いた面もあるようです」(『セツと八雲』朝日新書)。ハーンの月給は100円で、いまの貨幣価値でいえば数十万円前後だろうか。

 ハーンの没後にセツが語った話が聞き書きされた『思ひ出の記』には、夫妻が熊本に転居してのち、隠岐を訪れた際のこんな話が書かれている。「西洋人は初めてというわけで、浦郷などでは見物が全く山のようで、宿屋の向かいの家のひさしに上って見物しようと致しますと、そのひさしが落ちて、幸いに怪我人がなかったが、巡査が来るなどという大騒ぎがありました」。

 当時、西洋人といえば、それほど好奇の目で見られ、しかも「赤鬼」あつかいする人も多かった。当然、その妻も同様の目で見られただろうし、妾となればなおさらで、さらに偏見が加わったということだ。松江を離れてのちの話として、前出の『セツと八雲』にはこんな記述もある。「(註・ハーンは)自分の家に寄宿させ、面倒を見ていた少年が洋妾の唄を歌ったのを聞きとがめ、実家に送り返した、という話も伝わっています」。

「洋妾」と揶揄されることが、セツにとってもハーンにとっても大きな苦痛だったことが伝わるエピソードである。セツを「シンデレラ」にたとえる人など、ほとんどいなかったのではないだろうか。

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