野球経験がないのに「縁故入団」も…1軍出場なしで終わった“幻の助っ人たち”

スポーツ 野球

  • ブックマーク

 昨年7月、米国在住のジョン・E・スモール氏が「1963年に西鉄ライオンズと契約したはずなのに、在籍した選手として名前が残っていない」として、現球団の西武に確認を求めてきた。その後、西日本スポーツの取材で、投手のスモールさんは練習生として入団したが、当時の西鉄は3人の外国人野手が支配下登録されていたため、選手登録されることなく、帰国したことが判明した。練習生というシステム自体が曖昧だった60年以上も昔の話だが、その後もNPBには1軍出場することなく終わった“幻の助っ人”たちが存在する。【久保田龍雄/ライター】

初月給を手にしてドロンなんて

 エースナンバーを貰いながら、初月給とともにドロンと失踪したのが、1974年に日本ハムと契約したバール・スノーだ。

 日本の貿易会社に採用されて来日したスノーは同年3月20日、三原脩球団社長と親交のある同社社長の伝手で入団テストを受験した。

 ユタ州立大卒業後、メッツ傘下の1Aなどで投げた経験を持つ29歳の右腕は、中西太監督らが見守るなか、低めに速球をビシビシ決め、「まったく練習をしていないのに、あれだけ投げられるのは大したもの」(中西監督)と好感触を得た。さらに3日後のオープン戦、ヤクルト戦の試合前のフリー打撃で打撃投手を務めたところ、中心打者の張本勲も「なかなかいい」と絶賛し、同26日に入団が決まる。

 中西監督は「同じテスト生だったバッキー(阪神→近鉄)よりスピードがあるし、それ以上は活躍してくれるだろう」と15勝以上を期待し、いきなりエースナンバーの18番を与えた。

 約1ヵ月間の調整後、4月25日に初月給を受け取りに来たスノーは、翌26日のイースタン、ヤクルト戦で先発デビューすることを告げられると、「サンキュー! この日が来るのを待っていたんだ」と大喜びだった。

 ところが、翌日は試合開始時間になっても、多摩川グラウンドに現れない。当初は試合が雨天中止になったので、来なかったものと思われたが、試合がスライドされた翌27日朝、マネージャーが宿泊先の都内のホテルに迎えに行くと、スノーはすでにチェックアウトしたあとだった。

 その後、30日になっても行方がわからないことから、球団は選手契約を解除し、パ・リーグに失格選手の申請を行った。5月2日になって、スノーがホームシックなどの理由で帰国し、現在はサンフランシスコにいることが判明したが、三原社長は「初月給を手にしてドロンなんて……。所詮風来坊ということですね。たとえ戻ってきても再契約する意思はない」とキッパリ。 かくして、“バッキー2世”は日本デビューを飾ることなく、NPB史上2人目の失格選手となった。

マーケティングの仕事をしたい

 冒頭で紹介した元西鉄・スモール氏同様、外国人枠の制限で出場機会を得られなかったのが、1979年に巨人入りした内野手、デニス・バーフィールドだ。

 カリフォルニア大時代に2年連続ベストナインに選ばれた逸材も足を痛め、米ドラフトで指名漏れの不運に泣いた。卒業後、遠縁にあたる与那嶺要2軍コーチに呼ばれ、巨人の入団テストを受けたところ、中越えに2本快打を放った打撃を長嶋茂雄監督に認められ、練習生として採用された。

 背番号37を貰ったバーフィールドは翌79年2月の宮崎キャンプでも、紅白戦で右中間に三塁打を放ち、ベース1周14秒60は、チーム一の俊足・松本匡史の14秒66を上回った。

 これにはミスターも「福本(豊。阪急)よりヤツ(松本)の方が速い。そのヤツより速いんだからデニスは“日本一の俊足だぞ”」(週刊ベースボール1979年2月26日号)とぞっこんだった。

 だが、同年の巨人はシピン、クルーガーの両助っ人が登録されていたため、24歳の練習生は当時のルールにより2軍戦にも出場できないまま、不本意なシーズンを終えた。本人は「試合にさえ出られれば、来季も巨人でプレーしたい」と熱望したが、翌年も出場できる見込みがないため、「マーケティングの仕事をしたい」と日本デビューの夢をあきらめ、11月18日に寂しく帰国した。

次ページ:“偉大な義父”のお蔭でプロ野球選手になれた

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。