【豊臣兄弟!】NHK大河では描き切れない「信長」が桶狭間で今川義元に勝てた決定的な理由

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今川義元の万全の戦略

 信長はやむをえず、弘治3年(1557)4月に今川氏と和睦した。しかし、野心家の信長がそのままおとなしくしているはずもない。今川氏との和睦を機に織田伊勢守家を討ち、弟の信成を誅殺し、上洛して将軍足利義輝との謁見も実現させた。こうして勢いづいたところで、鳴海領をめぐる今川氏との和睦も破棄してしまった。

 しかし、鳴海領は今川義元にとっても、今後の勢力伸長を占う要地だから黙ってはいなかった。かつて織田方との和睦を仲介した山口氏を謀殺し、鳴海領を事実上、今川方の支配下に置いた。そして中核の鳴海城と大高城をともに重臣に守らせたうえで、織田方との長年の争いに決着をつけるべく、みずから先頭に立って出陣したのである。

 そして、『豊臣兄弟!』の第3回で描写されたように、松平元康が大高城に兵糧を運び、織田方の丸根砦などの攻撃をはじめた。その意味をひもとくと、今川義元の万全の戦略が見えてくる。

 現在、大高城の跡から海まではかなりの距離があるが、当時はこの城の西側は海に突き出していたという。このため海路を使えば、兵糧を運び込むのは難しくなかった。そして大高城さえしっかり確保できていれば、海路を経由して川をさかのぼっても、陸路で街道を進んでも、清洲に侵攻するのは容易だった。だから信長も、大高城の周囲に丸根砦や鷲津砦といった付城(敵の城を攻めるための臨時の前線基地)を築いていたが、それを松平元康が攻略し、海路も陸路もしっかり確保しようとしていたのである。

 そのために、今川義元は総勢2万5,000とも4万5,000ともいわれる軍勢の主力を大高城方面に割き、みずから率いる本体は、鳴海領のもうひとつの中核である鳴海城方面を、信長が築いた付城を攻略しながら進んでいた。あとは5月19日のうちに大高城に入り、清洲をめざせばよいはずだった。そうなれば信長はひとたまりもなかった可能性が高い。

「天」が信長に味方した

 今川義元といえばドラマなどで、公家趣味にかぶれた軟弱な武将というイメージが定着している。文化度が高い武将だったのはたしかだが、ここまで述べたように、周到な準備のもと横綱相撲ができる武将だった。それなのに、なぜ信長に討たれてしまったのだろうか。

 前述のように、義元軍の多くは大高城方面などに分散し、義元みずから率いる本隊は人数があまり多くなかったようだ。ただ、結果的に合戦場になった桶狭間の周辺は、深田があるなどして攻められにくい、という計算があったと考えられる。『豊臣兄弟!』の第4回「桶狭間!」(1月25日放送)では、わずかの手勢を率いて清洲城を発った信長は、まず鳴海城の東に織田方が築いた善照寺砦(名古屋市緑区)に入る。

 実際、信長は善照寺砦に入った。その後の信長の動きについては、史料からはわからず想像するしかないが、義元率いる軍の動きは、砦から眺めることができたと考えられる。とにかく戦うしかない。そうはいっても、信長が絶体絶命の危機にいたことには変わりない。やはり「天が信長に味方した」ということに尽きるだろう。

『信長公記』によれば、ちょうど、ひょうが混じった雨が降り出し、しかも激しい風をともなったが、その風は信長軍にとっては背中を押す追い風で、義元軍にとっては向かい風だった。大雨が降って視界が利かないなか、追い風に押されて信長軍が攻め込んでくれば、さすがの義元もたまらない。だが、それは義元に油断があったからだとはいえない。

『豊臣兄弟!』では、信長軍は奇襲をかけるようだが、そんな天候で、しかも信長軍にとっての強い追い風では、奇襲をかける必要もない。近年は、信長が正面から攻撃したと考える研究者が多い。

香原斗志(かはら・とし)
音楽評論家・歴史評論家。神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。著書に『カラー版 東京で見つける江戸』『教養としての日本の城』(ともに平凡社新書)。音楽、美術、建築などヨーロッパ文化にも精通し、オペラを中心としたクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』(アルテスパブリッシング)など。

デイリー新潮編集部

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