【豊臣兄弟!】NHK大河では描き切れない「信長」が桶狭間で今川義元に勝てた決定的な理由
今川義元が信長とぶつかった理由
眠っている織田信長(小栗旬)のもとに、自領に侵攻中の今川義元(大鶴義丹)の軍に関する情報が届けられた。今川方が押さえている大高城(名古屋市緑区)に松平元康(松下洸平、のちの徳川家康)が兵糧を入れ、さらに大高城を包囲する織田方の丸根砦と鷲津砦(ともに名古屋市緑区)を攻めている、というのだ。信長は飛び起きて号令をかけた。「出陣じゃ!」。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』の第3回「決戦前夜」(1月18日放送)。
【写真】お尻もあらわに…「べらぼう」で“何も着てない”衝撃シーンを演じた「元宝塚トップスター」&「セクシー女優」 ほか
第2回「願いの鐘」(1月11日放送)では、兄の藤吉郎(池松壮亮、のちの羽柴秀吉)から、信長の居城がある清洲(愛知県清須市)に行って侍になろうと誘われていた小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)は、ついに意を決して兄とともに清洲に向かった。その兄弟を待ち受けていたのが、今川義元との決戦だった。
決戦とはいうまでもなく、永禄3年(1560)5月19日の桶狭間合戦だが、織田信長と今川義元は、どのような経緯を経て桶狭間で衝突することになったのだろうか。第3回で描かれたのは、以下のような事情だった。
もともと織田方と今川方は、両者の領土の「境目」に該当する尾張(愛知県西部)の鳴海領(名古屋市緑区を中心とした愛知県南部)をめぐって対立しており、両者は一時的に和睦したものの、信長はそれを破っていた。そこで今川義元は、鳴海領を平定するために大軍を率いて尾張への侵攻をはじめた――。
これは最新の研究成果を踏まえた描写である。以前は、義元は天下に号令をかけるために上洛をめざし、その途上で信長に討たれた、と説明され、ドラマでもそのように描かれることが多かった。だが、上洛云々という話は、いまではすっかり否定されている。
領土の「境目」をめぐる熾烈な争い
鳴海領は織田方と今川方の領土の「境目」だったと前述した。この「境目」とは、複数の大名の力がおよんで、どの大名の領土に帰属するか明確でなく、常に争いの場となった地域を指す。戦国大名にとっては、こうした政治的および軍事的な境界を制覇することは、自身の領国を安定させるためにきわめて重要だったので、勢力争いのツボになったのである。
そして鳴海領をめぐっては、信長が家督を継ぐ以前から、織田方と今川方の争いが絶えなかった。じつは「織田方」にもいろいろあるのだが、ここでは信長が家督を継いだ織田弾正忠家を指す。織田家の主筋は織田大和守家で、弾正忠家は庶家のひとつだった。では、鳴海領ではどんな争いが繰り広げられたのか。
信長が家督を継いだのは、天文21年(1552)3月に父の信秀が死去してからで、その1年半前の天文19年(1550)8月にも、義元は鳴海領に侵攻している。このとき織田軍は今川軍を辛うじて撤兵させ、その後、鳴海領に勢力をもつ山口氏を仲介者として和睦が成立したようだ。
しかし、信長が家督を継ぐと、織田弾正忠家の内部には不穏な状況が生じた。とくに信長と弟の信成の対立が浮き彫りになったことは、外部から見ると、家の内部が不安定であるように見えた。織田方と今川方を和睦させた山口氏も、この状況を見て今川方に加担し、織田方は大高城を攻め落とされてしまった。
油断すればすぐに攻め滅ぼされてしまう戦国時代は、大名も国衆(有力な在地領主)もみな、周囲の勢力の動向に敏感だった。鳴海領を今川方に押さえられてしまった信長も、周囲から突き放され、厳しい状況に置かれた。まず、主家の織田大和守家が敵対した。信長はこれを討ったが、今度は織田伊勢守家が弟の信成と組んで敵対した。美濃(岐阜県南部)の斎藤氏も敵に回るなど、まさに四面楚歌の状況になった。
[1/2ページ]


