久米宏が演出で見せた「非凡な才能」と「Nステ」立ち上げの“裏話”
1月1日に肺がんで亡くなった久米宏さん(享年81)。1967年にTBSに入社後、1979年に独立しフリーアナとなるが、やはりその代名詞は1985年に始まった「ニュースステーション」(テレビ朝日)だろう。立ち上げ期から深く番組に関わった久米さんには、数々のエピソードが残っている。当時の共演者や番組関係者への取材でわかった“裏話”とは。
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※本稿は「週刊新潮」2026年1月29日号掲載【反戦「久米宏」とニュースステーションの18年】の一部を抜粋/編集したものです。
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「ビール」の件は事前に知らされていなかった
「誰かにビールの準備はさせたのでしょうが、ほとんどのスタッフは事前に何も知らされていなかったと思います」
そう振り返るのは「テレビ朝日映像」社長の若林邦彦氏。『ニュースステーション』の元プロデューサーである。
2004年3月26日、同番組最終回の終盤で、久米はみずからグラスにビールを注ぎ、“僕のご褒美”と一息に飲み干した。彼の真骨頂ともいうべき、意表をつく演出だった。
1944年生まれの久米が、早稲田大学政治経済学部を卒業後、アナウンサーとしてTBSに入社したのは1967年のこと。
「頭角を現したのは、1970年に永六輔のラジオ番組でリポーターに抜擢されてから。1975年にテレビ『ぴったしカン・カン』の司会に起用されると、お茶の間に顔が知れ渡った」(芸能デスク)
1978年には黒柳徹子とともに歌番組『ザ・ベストテン』の司会に。翌年TBSを退社してフリーとなった。
カップルが途中でやめるような番組に
そして1985年、新たに始まる番組のキャスターをつとめたことで、彼の人生は決定的に変わる。ほかでもない、テレビ朝日の『ニュースステーション』である。
現在では珍しくない、月曜日から金曜日までぶち抜きの夜のニュース番組。が、当時は大型報道番組といえばNHKの独壇場で、Nステの発想は“事件”だった。Nステで初代天気予報キャスターとリポーターをつとめた作家・翻訳家の松本侑子氏が振り返る。
「もともと平日のプライムタイムには、ドラマや時代劇など、いろいろな番組があったわけです。それらを全部やめてNステを始めるとなると、ドラマ出演者たちは仕事を失います。さらに、スポンサーがつかないので、広告収入も減ります。当時は、報道番組は視聴率が取れないと言われていたからです」
そこでNステ誕生に向けて奮闘したのが、テレ朝の報道局次長だった故・小田久栄門氏だったという。
「小田さんは“本当に苦労した”と語っていました。前番組の出演者たちに会いに行き、“頭を下げて話してわかってもらった”と。私たちも“Nステが失敗したらテレ朝は潰れる”という思いを共有していました」(同)
久米が思い描いていたのはずばり“中学生でもわかるニュース番組”。久米自身、いたるところでそう口にしていたが、
「雑誌の対談で、久米さんは“中学生でも”というのは表向きで、“カップルでホテルに泊まってる客が、途中でやめて見るような番組にしよう”と言っていたと述懐していました」(前出・芸能デスク)
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