久米宏が演出で見せた「非凡な才能」と「Nステ」立ち上げの“裏話”

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「久米さんの手がすごく震えていた」

 番組はキャスターの公募も行った。先の松本氏が続ける。

「一般公募の審査は7次試験ぐらいまでありました。最終面接では、係の人が“一人でこの扉の向こうに入ってください”と言われたんです。社長さんがいらっしゃるのかと思いながら扉を開けると、部屋には久米さんが一人でおられました」

 久米は“はじめまして。久米宏です”と声をかけ、

「“僕は、アナウンサー人生をかけて新しい報道番組を始めます。その運命をともにする人は、僕が自分で選びます”とおっしゃったんです」(同)

 緊張でかたくなった松本氏を慮ったのか、

「久米さんから“大学生ですよね?”“『ザ・ベストテン』は観てますか?”“トシちゃんとマッチ、どっちが好きですか?”と笑顔で聞かれました」(同)

 見事、番組に抜擢された松本氏は、久米からアドバイスされたことが三つあるという。

「一つは、番組で意味もなくニコニコしない。二つ目は、落ち着いた低い声で話す。三つ目は、フリルのある服、長いイヤリング、髪のカールなど、ゆらゆら揺れるものを身につけない。視聴者はその動きに目がいって、話が伝わらないから、と。いかにわかりやすく、正しく丁寧に伝えるか、常に考えている方でした」(同)

 フリーキャスターの橋谷能理子氏も、約5700人もの応募者の中を勝ち抜いたひとりだ。

「最終面接のあと、合格したキャスター10人とプロデューサー、そして久米さんというメンバーで食事会がありました。そこで久米さんは“僕たちのことを仲間だと思わないでください。ライバルです”というニュアンスのことを言いました。当時は“えっ?”という衝撃が大きかったですが、いま振り返れば“あなたたちはプロですよ”と、あるべき姿勢を伝えてくださったのだと思います」(橋谷氏)

 サブキャスターに小宮悦子、コメンテーターに朝日新聞論説委員の小林一喜氏という陣容で、1985年10月7日、いよいよ初日を迎えた。

 橋谷氏も久米の隣で歴史的な瞬間に立ち会った。

「このとき、久米さんの手がすごく震えていました。“こんな大物司会者でも緊張するんだ”と驚いたのを覚えています」(同)

 しかし、結果は大惨敗。鳴り物入りでスタートしながらも、最初の特集テーマは“鮭”。久米は自著で〈牧歌的な内容に終始してしまった〉と綴っている。

「小田さんも“これはないだろう”と激怒していました。反省会はお通夜のようでしたね」(橋谷氏)

 松本氏もこう言う。

「はじめの頃は視聴率が伸びなくて、反省会では毎日深夜に1時間以上、スタッフが激論を戦わせていました。久米さんは腕組みをして黙って聞いていて、最後に“僕はこう思います”とおっしゃるのです。それがいつも“なるほど”と思わせるものでした」

「御巣鷹山」特番での「非凡な演出の才」

 低空飛行のまま、年末の特番に突入。そこで、久米は非凡な演出の才を発揮する。先の若林氏によれば、

「その年の夏、御巣鷹山への日航機墜落事故が起こりました。特番ではこの事故について約60分の特集を放送したのですが、冒頭で、亡くなった520人分の靴を座席表通りに並べた映像を流したのです」

 発案者は、久米だった。

「年齢や性別だけでなく、旅行だったのかビジネスだったのか、乗客についてはそこまでわかっていたので、一人一人にふさわしい靴を用意しました。それも使い込んだ感じを出すために、新品ではなく中古。美術スタッフは大変だったと思いますが、それほど久米さんは“本物らしさ”にこだわっていた。スタジオに機内を模したセットを作って靴を置くと、520人の人生が視覚化されて飛び込んでくるようでした」(同)

 創意を凝らした演出と当意即妙なコメントで、これまでにない報道番組を確立。やがて番組は軌道に乗りテレ朝の看板として君臨する。

〈有料版の記事【「久米宏」が貫いたアナウンサーの“矜持”と「反戦」】では、久米宏が中曽根事務所からの“出禁”を喜んだ理由、そしてアナウンサー人生を通して貫いた「反戦」、番組を潔くやめた背景にあった“想い”など、5000字にわたり番組関係者や共演者の証言を詳報している〉

デイリー新潮編集部

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