「“私か、それ以外か”解散」 高市首相は「中道」をどこまでネチネチ攻められるか
“革新”を“改革”に変えただけ
中曾根康弘内閣当時の1984年の自民党総裁選で二階堂進副総裁の擁立に関与したのは象徴的で、特に自民内の田中派、そして竹下派に連なる面々との関係を構築していく。
自民や社民両党の間で行きつ戻りつを繰り返しつつ、1993年の細川護熙連立政権で入閣。1999年に自自公連立政権に参加。それを昨年に解消して現在に至っている。
「今回決まった党名や打ち出した政策から見て取れる政治スタンスはかつての中道革新連合政権構想と密接につながっていると聞きました。“革新”を“改革”に変えただけでほぼ同じ名前で、しかも当時は政権構想名だったものが今回は党名になっていますから、“この名称でとにかく進めたい。これ以外の選択肢はない”と立民側にかなりゴリ押ししたあとがうかがえます」(同)
1973年当時の事情や新党名の意味をリアルタイムで知る人は学会内ではどんどん少数派になっているが……。
追い込まれた公明・学会
「そういうことはあまり重要ではなく、今回の大きな選択に内部的に説得力を持たせるためのネーミングだと見ています。もちろん特に若い世代にとって急進的で降ってわいたような流れですからついて行けない学会員も結構な割合でいるようですが、“原点回帰”を余儀なくされるほど公明・学会が組織固めの面で追い込まれていたと言えるかもしれません」(同)
高市氏の側近らによる分析も同様だという。
「今回の公明の動きは外部に広がりにくく、さらに支援組織の内部にも浸透しづらい“ハードルの高さ”があるのではないかとの見方があります。自自公連立に参加するまで公明が学会の事情で政治的スタンスをフラフラ・あっちこっちさせていたことも今後の選挙戦においてマクロ・ミクロでネチネチ突っ込むことも可能だと見ています」(同)
むろん、そんな公明とついこの前までは蜜月だったのだから、彼らを攻めることはとりもなおさず自分たちの過去の方針を否定することにもつながりかねない。それでも「平和の党」を巡る争いが激化することは避けられそうにないようだ。
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