「解散か総辞職かで政治部内が真っ二つ」…新聞各社“昭和の政治スクープ”秘話 元敏腕記者「渡辺恒雄氏」が後にボヤいた“変化”とは

  • ブックマーク

政治スクープの今と昔

 高市早苗首相は1月19日夕、衆院解散を正式表明した。読売新聞が「高市首相、解散検討」の記事を配信したのはその10日前、9日夜のこと。15日、情報番組「ミヤネ屋」(読売テレビ・日本テレビ系)に出演した橋本五郎氏(同紙特別編集委員)は、解散報道を“官邸側の意向”とする見方に対し「記者への侮辱」と激高した。

 解散関連の報道で思い出されるのは、同紙が1954(昭和29)年に放った大スクープ「第5次吉田内閣の総辞職」。この記事以外にも、昭和20年代の新聞スクープといえば大半が政治絡みだった。そこで「週刊新潮」は、ロッキード事件で日本が揺れに揺れていた1976年末、かつての関係者たちに取材を敢行。「第5次吉田内閣の総辞職」報道などの舞台裏を報じていた。今回はその記事の一部をお届けしよう。

(以下、「週刊新潮」1977年1月6日号「明日なき闘い『新聞スクープ』の功罪」から抜粋し、再編集しました。文中の肩書き等は掲載当時のものです)

 ***

昭和20年代のスクープは圧倒的に政治部

 戦後のスクープは政治部から始まった。敗戦から占領へと続く政治の激動期には、他の社会部ネタのようなものは、何もかもが「小さく見えた」からかも知れない。

 とはいっても、終戦直後といえば、今と違って、全国民の最大関心事はまず食べること。そのせいかどうか、新聞記事もまた、何かにつけ、食べることと結びついた。

 ちなみに、昭和20(1945)年10月8日の読売新聞を開くと、『味噌汁に喜ぶ闘将十六名、晴れて“殺人刑務所”を語る』という記事がある。徳田球一、志賀義雄氏ら、当時の共産党幹部との出獄直前会見記なのだが、この記事は社会部ダネ。これも他紙を抜いてのスクープではあった。

 しかし、昭和20年代のスクープといえば、圧倒的に政治部ダネが多い。

 なかでも永田町の語り草となっているのは、昭和29(1954)年12月7日、読売朝刊の『吉田内閣、きょう総辞職』というスッパ抜きだ。造船疑獄での犬養法相の指揮権発動や鳩山一郎派の脱党などで窮地に追いこまれていた吉田茂首相の第5次吉田内閣が、野党3派に不信任案をつきつけられ、信を国民に問う解散か、責任をとっての総辞職かで、モミにモンでいた最中であった。

 一種の観測記事ではあったが、地方紙一紙を除いて他紙が軒並み解散説を打ち出したなかで、読売のこの記事はズバリ的中。その日の昼すぎ、吉田内閣はついに総辞職。以来、一代のワンマン宰相・吉田茂は大磯に引っ込み、政治の表舞台から姿を消した。この記事が“大スクープ”といわれるゆえんは、そこにある。

実は少数派だった「総辞職説」

 当時、政治部記者として取材に当たった政治評論家の宮崎吉政さん(2006年没)の思い出話。

「解散か総辞職かで、政治部内が真っ二つに割れてね。ボクなんかの総辞職説は少数派。担当している派閥によって意見はハッキリしてて、総辞職説は鳩山派の担当者と副総理だった緒方(竹虎)さんに深い記者だけ。あとはみんな解散説だったよ。つまり、総辞職説を唱えたのは、要するに、吉田は気に入らんから倒しちゃえって組さ」

 それぞれ身びいきのある政治記者。そう聞くと、何やら田中金脈を知ってて書かなかった田中派記者の諸公は、なるほど新聞界の伝統に忠実だったと思えてくる。だが少なくとも、この時の先輩はあえて少数意見を記事にした。

 そして、大スクープ。その辺が、記者としての身の処し方の難しいところと思いたいが、イヤ、この時だって……と、宮崎さんの打明け話。

「当時の小島文夫編集局長兼政治部長(1965年没)が、責任はオレが取るといって書いたんだが、本当は、正力(松太郎)さん(当時の社主、1969年没)の意向だったようだよ」

次ページ:新聞社の“声名”を賭したスクープ合戦

前へ 1 2 次へ

[1/2ページ]

メールアドレス

利用規約を必ず確認の上、登録ボタンを押してください。