「自宅には一流ホテル出身のコックが…」 “共産党のプリンス”不破哲三氏の生活ぶり 「趣味の人形が1000体置いてある建物があった」
指導部から退き「名誉役員」となって2年。長らく日本共産党のトップに君臨し、党をけん引してきた不破哲三前議長が昨年12月30日、95歳で亡くなった。戦後を代表する共産主義者の素顔を振り返る。
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「理論で勝てる人はいない」
後に“共産党のプリンス”と呼ばれる不破氏が入党したのは、戦後間もない1947年のことだった。
「東大在学中に学生細胞となり、卒業後は鉄鋼労連の本部書記としてキャリアをスタートさせた。69年に衆院選に出馬して初当選し、以後連続11期、34年間にわたって代議士を務めました」(政治部デスク)
また、戦前から非転向を貫いた“中興の祖”宮本顕治に引き立てられて、
「70年には40歳にして党中央委員会書記局長に抜てきされました。その後は宮本の後を追うように委員長、議長を歴任。党内きっての理論派として鳴らしつつ、天皇制と自衛隊の存在を容認する“ソフト化路線”を打ち出すなど、柔軟に党を運営してきました」(同)
元共産党政策委員長の筆坂秀世氏が語る。
「マルクス、エンゲルス、レーニンといった思想家や革命家たちの本を党内で最もよく読み、精通していました。彼に理論で勝てる人はまずいなかった。学習会や講演では、“科学の目”で物事を正しく見ることの大切さを繰り返し強調していました」
厳しい一面
普段は冗談を言うのが好きで快活だったが、党運営になると話は別。
「選挙のビラ作りでは、志位和夫さんがオーケーを出したものを、政策委員長だった僕が不破さんの自宅まで届けていたのですが、ほぼ100%、書き直しを命じられたものです。淡々と“全然ダメだよ”“こんなもの誰が読むの”“色もよくないね”と。不破さんのオーケーがなければビラは一枚も刷れないので、意見を必死にメモしましたね」(筆坂氏)
こんな一幕も。
「幹部会で志位さんが委員長としてまとめの発言をすると、その隣に座る不破さんが“僕はちょっと違うな”と、最後にひっくり返す。そんなことが何度も続いて、志位さんがだいぶ追い詰められたように見えたときもありました」(同)
“山荘”での生活ぶり
プリンスというよりはキングのようだが、
「大事な指導者なので、党の待遇は手厚かったです」(筆坂氏)
実際、86年に現在の神奈川県相模原市内に山荘を建ててからの生活ぶりは有名だ。
「自宅は永田町から車で片道1時間半はかかる、とにかく大変な山奥にありました。敷地に入ってすぐ、運転手や警備員、料理人が寝泊まりするための小さな家があった。党本部の食堂から派遣されていた料理人は、一流ホテルでのコック経験がある人でした」
不破夫妻の住まいは、
「2階建てのログハウスです。リビングには10人ほどが座れるテーブルがあり、私もそこでいろいろな料理や日本酒を振る舞われたことがありました」(同)
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