95歳で死去「不破哲三氏」自伝が“天敵”の出版社から刊行された理由 知られざる“ペンネーム”の由来とは
日本共産党の前議長、不破哲三さんが、昨年12月30日、逝去した(享年95)。
【写真で見る】「天敵」ともいえる新潮社と共産党との関係、若き日の不破さんの姿など
不破さんは、40歳の若さで党書記局長に就任し、「日本共産党のプリンス」と呼ばれた。以後、委員長として柔軟路線をとり、戦前からあった“革命団体”のイメージを払拭。天皇制や自衛隊を“当面容認”した。
そんな不破さんが、新潮社から「自伝」を刊行していたのを、ご存じだろうか。『私の戦後六〇年 日本共産党議長の証言』(2005年8月刊)である。
いうまでもなく、新潮社は、「週刊新潮」誌上を中心に、さかんに日本共産党を批判してきた。
特に1978(昭和53)年、同党元幹部・袴田里見氏(1904~1990)の手記《「昨日の同志」宮本顕治》の掲載は、決定的な出来事だった。単行本化もされ、世間は騒然となった。これは戦前に発生した“日本共産党スパイ査問事件”で、同志をリンチで死に追いやったのは、宮本顕治氏(当時、党委員長)であるとの、衝撃的な告発だった。
もちろん、党は反論を大展開。袴田氏と党の間で訴訟沙汰にもなった。それだけに、新潮社と日本共産党は、不倶戴天の間柄であると、誰もが思っていた。だが、「週刊新潮」と日本共産党は、それ以前は、さほど悪い関係でもなかった。現に、1975年には、宮本顕治委員長の回想手記《私自身の「昭和史」》を掲載しているのだ。しかし、この袴田手記の掲載で、関係は決定的となった(しかも、その手記のなかで袴田氏は、不破さんをも、さかんに批判しているのである)。
そんな版元から自伝が刊行され、それどころか、刊行時には、不破さん自身が新潮社内で、新刊発売のプロモーションともいえる記者会見をひらいていた。
いったい、どういう経過を経て、不破さんは、“天敵”のはずの新潮社から著書を刊行したのだろうか。当時、出版部でこの本を担当編集した森重良太さん(67)に、思い出を緊急寄稿していただいた。
新潮社からの刊行でも「かまいません」
2005年は「戦後60年」の節目だったので、前年あたりから、それにふさわしい企画はないかと、編集会議で課題になっていました。
あるとき、かねてより懇意にしていた政治ジャーナリストの角谷浩一さん(64)と会った際、何気なく「戦後60年の面白い企画、ありませんかね」と聞くと、「不破哲三さんの回想記なんか、どうですか」と言うのです。
最初は、冗談を言っているのだと思いました。ところが、話をうかがうと、角谷さんは、不破さんとすでに知己の様子です。その角谷さんに、今回、あらためて聞いてみました。
「懐かしい話ですね。2004年に、ラジオ局・文化放送主催で、一回に2人ずつ政治家を招く勉強会〈文化放送 政治塾〉がスタートし、わたしが企画コーディネイターをつとめました。その第1回前半の講師として、まず元総理の中曽根康弘さんが決まりました。もう一人、中曽根さんに匹敵する政治家ということで、第1回後半の講師を、当時、日本共産党議長だった不破哲三さんにお願いしたところ、快諾いただいたのです。不破さんは、かねてより〈赤旗まつり〉などでの講演を取材して、関心を抱いてきた政治家でした」
もしこのとき、2人が同席していたら、歴史的ヴィジュアルになったはずですが、さすがに、それは無理だったようで、前半・後半、別々の登壇でした。
「このときの不破さんの講演は、“世界のなかの日本国憲法を考える”という内容で、“生存権を憲法でうたっている国は、日本とイタリアだけ”などと、多くの実例をあげ、分かりやすく語ってくれました。このとき、戦後政治史の主流とはいえない日本共産党の視点で、戦後60年をまとめたら、ユニークな本になるのではないかと思ったのです」
そんな企画が実現するのか……とりあえず角谷さんから不破さん側に提案していただくと、すぐにOKが出たというではありませんか。
それでも、なにぶん版元は「新潮社」です。その点も確認してもらうと「かまいません」ということです。
要するに、角谷さんによる聞き書きインタビューなら、どこの版元でもおまかせする――ということだったのです。また、不破さんの著書は、日本共産党系の新日本出版社からの刊行が多かったので、ほかの版元から出すことで、新しい読者を獲得したいとの考えもあったような気もします。
新潮社内の企画会議でおそるおそる出してみると、これも即OKでした。「新潮社から日本共産党議長の本が出るなんて、面白いじゃないか」というわけです。袴田手記の時代から30年近くたっており、現場編集者たちには、もう“恩讐の彼方に”となっていたせいもありました。
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