孤島に女1人と男33人「アナタハンの女王」の晩年 義理の娘が明かした“忘れられない一言”とは「人間は死ぬと…」

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 サイパン島から北へ約150キロに位置するアナタハン島は、面積30平方キロの小さな島である。太平洋戦争中の昭和19(1944)年7月、サイパン島守備隊が玉砕し、アナタハンには33人の日本人が取り残された。その中にいた唯一の女性が、当時24歳の比嘉和子さんである。彼らが救出されたのは7年後の昭和26(1951)年。孤島の“女王”をめぐる殺し合いの果てに、男性は20人に減っていた。

 昭和史の中でもひときわ奇怪な「アナタハンの女王事件」。帰国した比嘉さんが昭和49(1974)年3月に死去した15年後、義理の娘や元同僚は「週刊新潮」の取材に対し、比嘉さんの素顔を語っていた。

(以下、「週刊新潮」1989年2月23日号「アナタハンの女王『比嘉和子』の晩年」を再編集しました)

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サイパン島守備隊の玉砕で孤立

 比嘉さんがアナタハン島へ渡ったのは昭和18(1943)年。夫と共に、当時の島にあったコプラ工場(注=ココヤシから食用油をとる)に勤めるためだった。

 戦局が厳しくなった昭和19年、島の沖合を通過する日本軍の輸送船団が米軍機に次々と沈められ、軍人、軍属が島へ泳ぎついた。比嘉さんの夫は、商用で島を離れたまま帰って来られなくなっていた。

 サイパン島守備隊の玉砕で孤立したこの島に残されたのは、民間人は比嘉さんと「工場」の監督主任の2人、そして31人の軍人、軍属だった。

 島には先住民が残して行った鶏20羽と豚40頭がいたが、3カ月ほどで食べ尽くしてしまう。椰子の実、パパイア、ブダイモなどが自生していたが、すぐに、猫、トカゲ、カニ、そしてネズミやコウモリも献立に上るようになった。

 一方、成り行き上、比嘉さんは「工場」主任と一緒に生活を始める。やがてこの“夫婦”の間に1人の若い兵隊が入ってきて、“夫”はある夜、何者かに刺される。その後も、比嘉さんをめぐって男たちの抗争が続いたが、相次ぐ仲間の死に終止符を打つために、男たちは比嘉さんを殺すことを相談する。

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