孤島に女1人と男33人「アナタハンの女王」の晩年 義理の娘が明かした“忘れられない一言”とは「人間は死ぬと…」

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死に顔はおだやかだった

 が、そのうちの1人が比嘉さんに知らせ、米軍に助けを求めた比嘉さんは昭和25(1950)年、命からがら島を脱出。これで、島にはまだ日本の敗戦を信じない兵隊たちがいることがわかったのだった。

 この「アナタハンの女王」物語は、その後、映画になった。比嘉さんは同名の芝居の舞台に出演して全国を興行。一時はスター並みの扱いを受けたが、昭和33(1958)年秋、郷里の沖縄に帰って知り合った「馬車大工」職人と結婚する。相手には12歳の娘と9歳の息子がいた。その娘さんが語る。

「私は最初、抵抗がありましたが、弟はすぐになつきました。その後、家族仲は良くて、桜祭りなど、遊びはいつも4人一緒でした。オジイ(父親)が死んだのは昭和42(1967)年でした。オバア(比嘉さん)が亡くなったのは昭和49(1974)年の3月13日。その年の1月に具合が悪くなり、一度は退院したんですが、再入院してそのまま亡くなりました。

 脳腫瘍です。子供、孫、姉妹、姪、甥、皆に囲まれて、死に顔もおだやかでしたよ。島での思い出話はほとんど聞いていませんが、ある時、“人間は死ぬと、体が膨れ上がるんだよ”と、何の気なしに漏らしたのが記憶にありますね」

とっても陽気で、働き者

 夫が亡くなった後、比嘉さんは一時自宅で「タコ焼き屋」をしていた。その後、伊武部ビーチの食堂に働きに出る。当時の同僚がいう。

「とっても陽気で、働き者の人でしてね。エッチな話が多かったけど、忙しい中をよく皆を笑わせてね。お客の団体さんが食事の出るのが遅くてイライラしてるのを、あの人が出てってゲラゲラ笑わせて座持ちをして鎮める。(比嘉さんの)子供もよくなついて、“長男は自分のお腹から産んだみたいな気がする。あの子が嫁をとったら自分は嫉妬するかもしれない”といってたくらいです」

 比嘉さんは「アナタハンの女王」だったことを隠さなかった。「もう一度島へ行ってみたい」ともいっていたという。「女王」の晩年は波乱のない幸福な毎日だったようだ。

黙認するより他、仕方なかった

 ところで、生き残って帰ってきた20人の男性たちも、大半が既に泉下の人になった。

「あの人は、島から帰って来て以来、声を上げて怒ったことは一度もありませんでした」

 と語るのは、生還者の1人である小高信一さんの妻(74)である。信一さんは昭和19(1944)年1月に出征。7月には家族のもとに戦死の公報が届き、“骨”も取りに行った。

 信一さんが富裕農家の長男だったため、妻はやむをえず次男(信一さんの弟)の妻に。ところが信一さん帰還の知らせが届き、親族会議も開かれた末、再び信一さんの妻に戻った。当時、珍しい話ではなかった。

「主人は、“島では1人の女をめぐって殺し合いがあったんだが、オレは皆が何をしようと、正義の心だけは持ってたつもりだ。でも、黙認するより他、仕方なかったんだよ”と、いつもポツリとつけ加えてました」

 小高さんが亡くなったのは昭和45(1970)年。59歳だった。

デイリー新潮編集部

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