米兵の遺族にも“軍神”の愛人にも取材を尽くす…『滄海よ眠れ』澤地久枝さんが“私は「鬼」であった”と語った理由
パソコンのない時代に、資料整理用のコンピューターを導入。
澤地さんと取材スタッフたちが捜し出し、話を聞いた相手は、膨大な数に及んだ。石村さんの話。
「遺族捜しは手間暇がかかりましたね。たとえばミッドウェー海戦では、沖縄県を本籍地とする戦死者が20人いました。しかし、最初の資料では、全20家族について〈遺族の該当者なし〉と記されていました。これも取材の結果、本土へ移った2家族を除き、18家族がまだ沖縄にいることが判明しました」
澤地さんと石村さんは、真夏に10日間をかけて、離島も含めて沖縄中をかけまわり、その18家族全員に会う。それが、第一巻の大半を占める慟哭の記録、第二章〈いのちが(ぬちどう)宝〉である。
「対面、電話取材、手紙、公的史料や仲間の証言……、考えられる限りの手段を使って“その人”の歴史を調べていきました。忘れられた給油艦の“あけぼの丸”に関しては、とりわけ熱心に取り組まれていましたね」
話をうかがっているうちに、こちらの胸が震えてくる。ケータイもネットも、ましてやファクスすらまだない、一般の通信手段といえば電話と郵便しかなかった時代に、これほどの取材が行われていたのだ。すると石村さんが、意外な話を打ち明けてくれた。
「実は、途中からは、資料整理にコンピューターの導入を決めたんですよ。なぜそんな巨額のお金をかけて……という周囲の懐疑を振り切って」
まだパソコンどころか、ワープロさえ、一般にはなかった時代である。
「澤地先生のご親族に、システムエンジニアのお仕事をされている方がいて、コンピューターの導入を勧め、協力もしてくださったんです。もちろん、いまのパソコンのような一般用ではなく、業務用の本格的なコンピューターです。それまでは、戦死者の情報はカードで整理しており、3000枚以上ありました。もしこれが火事などの事故で失われたらたいへんだというので、アルバイトを1人雇ってコピーをつくっていたほどです。そのデータを、途中からコンピューターに入力して、整理してゆきました」
その結果、誕生した名著が、データ編としてまとめられた、澤地久枝著『記録 ミッドウェー海戦』(1986年、文藝春秋刊→現・ちくま学芸文庫)である。まさに10年がかりの大仕事のひとつの到達点だ。日米全戦死者3418名の氏名、生年、所属階級、家族構成、家族の声、海戦の詳細な経過記録、戦死者のデータ分析など、あらゆる記録が載っている、前代未聞の書物である。
この本の〈ちくま学芸文庫版あとがき〉で、澤地さんは、こう書いている。
〈データをコンピューターで数値化した作業は、人間の物語の微動だにしないつよさの裏づけを示しているのかも知れない。〉
パソコン(初期の名称は「マイコン」だった)すらなかった時代に、コンピューターの重要性に気づき、本格導入していた澤地さんの先見性にも驚かされる。
この作品に、澤地さんが込めた思いは、何だったのだろうか。
〈「戦死」について、しっかりとらえてみたい。ひとりの人間にとって、どんな意味をもつのか。死に奪われた命につながる人びとにとってはどうなのか。(略)/日本だけでなく、敵味方としてたたかった相手社会、人びとにとっての「戦死」はどういうものだったか。/仕事をする心の奥底にこんな疑問をいだいて私は生きてきたと思う。〉(『記録』~〈ちくま学芸文庫版あとがき〉より)
その答えは、取材開始から『記録』、さらに『家族の樹 ミッドウェー海戦終章』(1992、文藝春秋刊)刊行まで10年、「サンデー毎日」連載期間2年7カ月、番外回などをふくめて全「113週」、原稿枚数2000枚のなかに、すべて書かれている。
『新装版 滄海よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死』全五巻は、各章が独立しているので、どこからでも、または一部の章だけでも読める。澤地さん自身、〈どの章から読まれても意味が通じ、それぞれの章が独立しつつ連環するように書いたつもりである〉と述べている(第五巻〈文庫版のためのあとがき〉より)。昭和100年、終戦80年を超えようとしているこの年末年始、ゆっくり読んでほしい、日本人必読の書である。
【第1回は「戦争ノンフィクションの金字塔『滄海よ眠れ』が復刊 ミッドウェー海戦の日米の全戦死者「3418名」を特定した「澤地久枝さん」執念の作業」読む人の心を打つノンフィクションの傑作はどのようにして誕生したのか】
取材・写真協力/毎日新聞出版図書編集部、石村博子さん、佐藤由紀さん
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