米兵の遺族にも“軍神”の愛人にも取材を尽くす…『滄海よ眠れ』澤地久枝さんが“私は「鬼」であった”と語った理由

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〈私は「鬼」であった〉――澤地さんの執念

 そして、本作の要所、第三点目は、

「単なる戦闘記録ではなく、〈人間〉ドラマに徹底的に踏み込んでいる点です。それまで、こんなに、深い感動を招く戦争ノンフィクションは、ありませんでした」(元週刊新潮記者氏)

 そのことは、たとえば第一章〈友永大尉の「真実」〉を読むだけでもわかる(注:単行本・文庫版の章立て構成は、初出連載順ではない)。

「最初はいわゆる戦記物だと思って読みはじめますが、そのうち、友永丈市大尉のプライベート部分に焦点が移り、戦争ノンフィクションというよりは、人間ドキュメントになっていくのです」

“友永雷撃隊”の隊長として戦死した友永丈市は、ミッドウェー海戦の象徴ともいうべき“軍神”である。戦後、映画「太平洋の鷲」(本多猪四郎監督、1953)では三船敏郎が、「ハワイ・ミッドウェイ大海空戦 太平洋の嵐」(松林宗恵監督、1960)では鶴田浩二が友永大尉役(劇中では友成大尉)を演じている。ともに当時の大スターが演じたことからも、いかに人気があった人物か、想像できよう。

「友永大尉は、夫人との間に子どもはいませんでした。ところが、芸者の愛人に子どもを産ませていたのです。澤地さんは、友永大尉がその愛人にあてた手紙を紹介しながら、章の後半で、この三角関係に踏み込んでゆきます」

〈妻帯していながら、芸者遊びをして子供ができたのであれば、ミッドウェー海戦で死んだ男は、妻に対し、子供とその母親に対し、不誠実と無責任さを問われることになるかも知れない〉(第一巻第一章より)

 澤地さんは、まず夫人に取材を申し込むが「ふれられたくない」と、断られる。そして、芸者の愛人(取材当時、63歳)に会いに行く。友永大尉の戦死から41年。彼女は「書いてもらったほうが、私はうれしい……」と取材を受け入れる。「おくさんが再婚なさったと聞いたときは、うれしかったですよ」「あの人が、私のそばへ帰ってきたような気がして……」と、語り始める。

「澤地さんは、愛人に対しても、そして夫人や友永大尉についても、ニュートラルに、しかし愛情をもって取材し、2人の女性の戦中・戦後をていねいに描いてゆきます。プライバシー保護とか個人情報とか、その種の言葉を寄せつけない、強固な筆致です。戦争が、市井人の日常を変えてしまう哀しさと、それでも人間はたくましく生きぬく存在であることが、伝わってきます。特に、夫人のその後には、絶大な感動に襲われるでしょう」

 通常の作家であれば、この章の話だけで、1冊のノンフィクションに仕立て上げるだろう。しかしこの濃厚なものがたりは、全15章+エピローグのなかの、たった1章にしかすぎないのだ。

 もちろん、アメリカ取材も容易には進まない。なにしろ、家族を戦死に追い込んだ敵国日本の、見知らぬ作家が話を聞かせてくれと、やってきたのだ。

〈ミルウォーキーでの電話で、リチャードソン一家の日本人に対する憎しみとつよい拒絶にじかにふれているS記者は、それでもなお「もう一度」と電話をかけることを求めた私の横で、青ざめてふるえた。/(略)私は「鬼」であった。/(略)「相手には拒絶する権利があるのよ。どうしてもいやなら仕方がない。でも、もう一度だけ、私が会いたいと言っていると伝えて……」/電話が通じる。〉(第五巻〈還らぬ旅人を追って〉より)

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