戦争ノンフィクションの金字塔『滄海よ眠れ』が復刊 ミッドウェー海戦の日米の全戦死者「3418名」を特定した「澤地久枝さん」執念の作業

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 2025年は「終戦80年」だっただけあり、出版界でも、多くの関連企画が登場した。そのなかで、10月に、決定打ともいえる本が復刊した。澤地久枝さんの『新装版 滄海(うみ)よ眠れ ミッドウェー海戦の生と死』全五巻(毎日文庫)である(以下、『滄海よ眠れ』と略称)。戦争ノンフィクションの金字塔と称されてきた名作だ。

 澤地久枝さん(1930~)は、『妻たちの二・二六事件』『密約 外務省機密漏洩事件』『火はわが胸中にあり 忘れられた近衛兵士の叛乱・竹橋事件』など、昭和史の重要事件を、綿密な取材と独自の視点で描きつづけてきたノンフィクション作家である。『滄海よ眠れ』『記録 ミッドウェー海戦』で、第34回(1986年)菊池寛賞を受賞している。改めて、復刊された今作の魅力を探りたい。(全2回の第1回)

名著復活!

「『滄海よ眠れ』の初出は、週刊誌サンデー毎日の連載ですが、当時、貪るように読んだ記憶があります」

 と回想するのは、元週刊新潮の記者で、現在60歳代後半のAさんである。

「連載がはじまったのは1982年6月でした。たしか、その年の夏の編集会議だったと思います。わたしは入社2年目の新米記者でした。会議の終わりで、“ヒコヤさん”の愛称で呼ばれていた当時の山田彦彌編集長が、『“サン毎”で始まった、澤地さんのミッドウェー海戦の連載が、すごいんだなあ』と言い出したのです。『あれは新聞には無理。週刊誌でないとできない読み物だ。様々なタイプの〈人間〉が次々に出てくる。バルザックの『人間喜劇』みたいだよ。われわれの仕事は、ああいう記事を書くことだ。もうすぐ夏の終戦特集をやるが、ぜひ読んで参考にしてほしい』と、口角泡を飛ばすように、熱心に説くのです。“ヒコヤさん”は、慶應の仏文科卒だったせいか、よくバルザックを例に出していましたが、あのときは、特に熱血口調だったので、よく覚えています」

 当時は、まだ多くの戦前・戦中派が、世の中で活躍していた時期である。“ヒコヤさん”は1932(昭和7)年生まれ。太平洋戦争の記憶が、身近な時代だった。週刊誌も、毎夏、戦争を回顧する特集を組んでいた。

 そもそも「ミッドウェー海戦」とは、どういう戦いだったのか。連載当時、アメリカ取材に協力した、元毎日新聞編集委員(連載時は「サンデー毎日」記者)の佐藤由紀さんが、今回の新装版文庫第一巻に寄せた「新装版文庫 刊行にあたって」のなかで、次のように解説している。

〈真珠湾攻撃から半年後の一九四二年六月、日米の空母機動部隊が太平洋上でぶつかり合い、日本軍は航空母艦四隻を失うなど致命的大敗を喫しました。これが敗戦へと向かう転換点として知られるミッドウェー海戦です。〉

 それまで、日本軍はまさに破竹の勢いだった。しかし、この3日間の海戦で大敗する。以後、日本軍は制空権・制海権をともに失い、太平洋戦争の主導権はアメリカ側に奪われる。そして、敗戦……。それだけに、戦前・戦中派にとって「ミッドウェー」の響きは、複雑な思いを招くことばであった。

 だが、アメリカ側にとっては“真珠湾の意趣返し”、まさに会心の海戦だった。現に、過去2回、「ミッドウェイ」の題で、ハリウッドで映画化されている(1976年:ジャック・スマイト監督、2019年:ローランド・エメリッヒ監督)。山本五十六の役を、前者では三船敏郎が、後者では豊川悦司が演じた。

〈この戦いの死者と家族の人生を日米双方の視点から描いた本作は、週刊誌「サンデー毎日」(毎日新聞社〈当時〉)で、一九八二年六月二十日号から一九八四年十二月三十日号までの約二年半、中断をはさんで連載され、一九八四年から一九八五年にかけて、毎日新聞社から全六巻で単行本化されました。さらに一九八七年、文藝春秋より文庫版(全三巻)が刊行されましたが、近年では入手困難な状態でした。〉(佐藤さんの〈刊行にあたって〉より)

 それが、“本家”毎日新聞出版から、全五巻の新装版文庫となって、復刊されたのだ。今回の編集を担当した、同社の図書編集部編集長、峯晴子さんにうかがった。

「2025年は終戦80年目の節目でしたから、ノンフィクションの大家である澤地久枝さんに、書き下ろしをお願いしましたが、今回は新たなご執筆は叶いませんでした。そこで、かつて『サンデー毎日』で連載された名作『滄海よ眠れ』が、もう長いこと新刊で入手できない状態がつづいていたので、復刊を考えました」

 新装版での文庫化にあたっては、いまの新しい読者のための工夫を加えた。

「1頁あたりの文字数も抑え、活字を大きめにして読みやすい分量にし、写真や地図を入れました。また和暦に西暦を加え、ふり仮名も増やしてあります。1冊あたりを適度な厚さにするため、文春文庫では厚めで全三巻だったものを、今回は全五巻にまとめました」

 復刊にあたっては、前述の佐藤由紀さんが協力した。その佐藤さんの話。

「澤地さんが目指したのは戦闘状況の再現ではなく、亡くなった男たちすべての“顔”を見つけたい、ひとつの海戦で失われた生命とその人生を描きたい、ということでした。ミッドウェー海戦は太平洋戦争初期のよく知られた海戦であり、陸戦に比べて戦闘開始から終了までの経過がわかっている(と思われていた)ことも、この海戦を選んだ理由のひとつと聞いています。ところが、実際には、日米ともに戦死者数すらはっきりしていませんでした」

 それは、想像を絶する作業となった。

次ページ:戦死者「3418名」を、どうやって確定させたのか。

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