「年賀状じまい」なんてわざわざ宣言する必要ないのでは? 社会に出てから1度も年賀状を書いたことがない編集者「もはや手間とストレスに見合わない」
ここ数年、この師走の時期になると、「年賀状終い」という言葉がネット上に溢れるようになった。「ねんがじょうじまい」と読み、要するに年賀状をやめることである。そんなもの勝手にやめればいいじゃないか、と私などは思ってしまうが、義理堅く、律義な人々は、年賀状をやめるにあたり、「今年で最後とします」というハガキを事前に送っておくのだという。【取材・文=中川淳一郎】
【写真】今年は「年賀状じまい」も加速?年賀はがきも85円時代へ…人気回復を目指しキャラクターコラボ切手を売る東京中央郵便局
今や連絡手段なんていくらでもある
そもそもの話で恐縮だが、年賀状なんて必要だったのだろうか? と思うのだ。何しろ、外注した文章とイラストがあったうえで「今年もよろしくお願いします」などと手書き文章が申し訳程度に添えられ、プリンターで住所を印刷するだけの、心のこもっていない年賀状が蔓延しているのだから。ハガキ代だって元々50円だったが今や85円。それでいて「もしも年賀状をやめたら私のことを人でなしだと思う人がいるかもしれない」「長年やってきたのに突然やめたら失礼なのではないか」という懸念から、年末の面倒くさい作業を惰性でやり続けてきたのだろう。
私自身は大学生までは友人・恩師宛に書いていた。が、卒業した1997年以降はまったく書いていない。28年間一枚も書いていないわけだが、それで困ったことがあるかどうかといえば何もない。「どうせあいつは書かないだろうから私も出す必要はない」ということから年々減っていき、ついに今年は郵便局から送られてくる一枚だけになってしまった。
年賀状については「年に一度、感謝を込めて」といった意味合いもあるだろうが、そもそも感謝する対象とは日々連絡を取っているわけであり、なぜ正月にハガキを送る必要があるのかまったく理解できない。今や連絡手段なんていくらでもあるわけだから、年賀状の時だけハガキを送る理由はないのでは。「手書きで心を込めた」とでも言いたいのは分かるが、冒頭でも述べたように、印刷ハガキが多いわけでそのロジックすら破綻している。
年賀状とともにハガキを送る文化は、「暑中見舞い」「残暑見舞い」などがあった。だが、これらはすでに廃れている。毎月23日は「ふみの日」として手紙やハガキを送ろうという運動もかつてはあったが、結局は郵便局の売り上げを増やすためのプロモーション活動だったのである。
こうした儀礼的な習慣として、ぎりぎりまだ現役(だと思う)なのが、お歳暮とお中元である。私にはこれもよく分からない。子どもの頃、自宅に油が大量に送られたことがあり、母親が「ウチはそんなに天ぷらを作る家だと思われているのかね?」と困惑していたことを思い出す。また、六本木の「〇〇企画」という会社からお歳暮が送られてきた時は、恐らく父親が接待で使っていた“夜の店”であろうと想像できるなど、あまり良い思い出はない。
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