「世界タイトルがアメリカ大陸を離れることを歓迎して…」 大島寛がフリスビー世界チャンピオンになった“運命の瞬間”(小林信也)

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 今回は僕の話から始める。大学に合格してすぐ野球部の合宿所に呼ばれ暮らし始めた。が、1週間で逃げた。次の目標も見つけられずにいた2年の初夏、テレビで初めてフリスビーを見た。

(あの円盤をパスしてシュートする新しい団体競技ができるんじゃないか)

 数日後、突然ひらめいた。これを形にしたら、新しい競技の発明者になれる!

 アメリカ育ちの級友がフリスビーを持って来て大学構内で投げた。意外と難しく、右にヘナヘナ曲がった。友人がスナップを利かせて投げる円盤はフワフワと不思議な浮遊感を醸して胸に届いた。その異次元感覚に僕はたちまち魅了された。

 情報を求めて日本体育大学を訪ねると、「アメリカでは世界選手権も行われている」と、ビデオを見せてくれた。ロス郊外のローズボウルを6万人の大観衆が埋め、フリスビーに熱狂する光景が映し出された。僕が考えた競技も行われていた。

(先を越された)

 ショックだったが、それ以上に華やかな現実を目にして体に火がついた。

(僕もここでプレーする!)

 甲子園に代わる新たな夢の舞台が見つかった。

 翌年の春休み、単身アメリカに渡り、国際フリスビー協会ダン・ロディック会長のアレンジで約1カ月、世界チャンピオンたちの家を転々と居候した。その夏、ローズボウル初出場。2年後の1979年、日本はアメリカに次ぐ総合2位に入った。ロディック会長が僕に代表してトロフィーを受け取れと言う。ちゅうちょした。その年はチームに貢献できていなかったからだ。しかし会長はキッパリ言った。

「ノブヤはフリスビーを学ぶために遠い日本からやって来た。そんなヤツは初めてだ。私の後について回って、朝から晩まで質問攻めにしたのを覚えているか。ノブヤがいなければ、今日の日本の受賞はなかった」

 その言葉を聞いて、いつか世界一になって恩返しをしたい、次の夢が浮かんだ。だが自分には十分な素質がない。夢を託せる逸材に出会いたい! 狙うなら数ある種目の中で日本人に最も難しいといわれるディスタンス(遠投)だと僕は確信していた。軽い円盤は力だけで飛ばせない。風に円盤を乗せる技術と感性が重要だ。そこは日本人の方が得意だと僕は直感したのだ。

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