「世界タイトルがアメリカ大陸を離れることを歓迎して…」 大島寛がフリスビー世界チャンピオンになった“運命の瞬間”(小林信也)
バレー部のエース候補
大卒2年目の80年、僕はスポーツ科学を学びたくて筑波大の研究生になった。そこで一人の学生から“逸材”を紹介された。
「バレー部のエース候補でしたが、腰を痛めて休部中です。バネがすごいから、きっと飛ばすと思います」
すぐ学生寮に彼を訪ねた。綿入れのはんてんを着て現れた大島寛は、身長174センチと大きくないが「垂直跳びは1メートル以上。スパイクの時は120センチくらいいきますね。空中で2段3段伸びる感じとよく言われます」、あっさり言った。クールなまなざし、ガッシリした体躯。僕は単刀直入に誘った。
「フリスビー、一緒にやらないか。キミなら必ず世界チャンピオンになれる!」
すると寛はほんの一瞬考えて、すぐうなずいた。
「ほな、やりましょか」
半年後、寛は楽々約100メートル投げ、関東大会で優勝した。ちょうどその頃、競技用の重い円盤が開発され、飛距離もグンと伸びた。世界で勝つには130メートルが必要になった。
卒業後、寛は近大附属高の教員になり、ジムに通うなど、一人で練習と研究を重ねた。寛が振り返る。
「パワーで投げてもフリスビーは飛びません。ゆっくり出て、剣道の“瞬殺抜き胴”のイメージでフルパワーを円盤に乗せる。するとディスクは風を受けて2段3段とぐんぐん伸びていく。瞬時にフルパワーを出せる技術が重要でした」
出会いから6年後の86年、僕らは春休みにロサンゼルスへ遠征し、6月のUSオープンに挑んだ。当時それが世界一決定戦だった。
寛は予選で向かい風に苦しみ、3位で決勝進出の4人に残った。フリスビーの遠投は独特だ。ファイナリストが横一列に並び、制限時間内に5投する。最も遠くに投げた選手が優勝だ。
旭日旗の鉢巻
最大のライバルは、17歳の天才少年サム・フェランズ。長い手足をしなやかに使い、素早いボディターンで上空高く投げ出す。地元出身だからアメリカ人たちはサムを応援するだろう。そう考えながら僕は寛の後ろに立った。エアホーンがフィールドに鳴り響き、競技開始が告げられると、信じられないことが起こった。そろいのサファリハットをかぶってフィールドにいたオフィシャルたちが一斉に帽子を取ると、その下に旭日旗を描いたそろいの鉢巻きをしていたのだ。それは「一瞬にして刀を抜くサムライの瞬時の動きを、緊張する本番でも忘れないため」寛がいつも巻いているものだ。スタッフ全員、世界タイトルが初めてアメリカ大陸を離れることを歓迎している。
異様な興奮の中で寛は130メートルを超える大きな弧を描き、世界一を実現した。
寛はライバルたちに囲まれてもみくちゃになり、僕はスタッフに肩を抱かれ握手攻めにあった。ロディック会長が静かに言った。
「ヒロシが勝った、ノブヤが勝ったんだ!」




