親戚中をたらい回しにされた「前田吟」壮絶な少年時代…どんな言葉よりも雄弁だった渥美清さんの“背中に刻まれた傷”

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 夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さんが俳優、歌手、タレント、芸人ら、第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第46回は俳優の前田吟さん(81)。「男はつらいよ」シリーズはじめ、数々の作品で名演を残した吟さんですが、壮絶な人生を経験しています。(全2回の第1回)

過酷な生い立ち

 映画「男はつらいよ」で主演を務めた渥美清が96年に亡くなってから、来年で30年になる(68歳没)。寅さんはテレビなどで再放送されるし、ギネスブックに載った世界最長のシリーズ映画だから時々話題になるが、没後30年にもなるとは。時の流れを感じないわけにはいかない。

 この間に多くの共演者や出演者がこの世を去り、シリーズ50作すべてに出演している中で、今も第一線で活躍しているのは寅さんの妹・さくらを演じた倍賞千恵子と、その夫・博役の前田吟さんの2人。寅さんモノで何かやれないかと考え、前田さんに今春まで72回にわたって「前田吟『男はつらいよ』を語る」という聞き語りの連載を実現させていただいた。

 取材はご自宅で12回、寅さんの舞台となった葛飾区柴又などで3回、合計15回で録音時間は22時間になった。原稿を書くために観たのとは別に、改めてシリーズ50作を3周(3回)鑑賞したのだが、結論は「何度観ても面白い」。

 前田さんとお会いして衝撃を受けたのは、第1回の取材だった。

 流布しているデータなどを見ても、生い立ちがすっきり頭に入って来ない。それも当たり前で、文章で簡単にまとめることなど到底できないほど複雑で、しかも、恵まれない話なのだ。その生い立ちは寅さんに辿り着くまでに、人の一生分を生きてしまったといっても過言ではないほど、過酷だった。

 1944年、山口・防府の生まれ。新聞記者だった実父と母親の間に生まれた非嫡出子。「なぜ世間さまに顔向けできないような産み落とし方をしたのか」と語った。そして聞くも涙、語るも涙の大変な少年時代を送る。

 前田さんは里子に出されるのだが、その前に、戦中のどさくさの中で戸籍を作るために福岡・小倉の実業家に戸籍に入れてもらって出生届を出した。防府の前田家にもらわれたのはそれから3カ月後。養父母は老夫婦だった。養母が4歳で亡くなり、養父との生活に。その養父も中1の時に他界。身寄りがなく、養父の妹と1年3~4カ月暮らすことになったが、妹は養父が残してくれた貯金を防府競輪で全部スッてしまった。

 その後、拾ってくれたのはその妹の娘だった。家は防府の山奥にあり、電気も水道も通っていない。そこから防府中学に通ったのだが、なぜか成績がよくなり防府高校に入ることができた。そしてその時期に初めて両親の存在を知り、郵便局の局長と結婚していた母親に会うことできた。これで何の心配もなく高校に通うことができる……。ところが、そこは夫の先妻の子、父親違いの妹もいる家庭だった。結局、身を寄せたのは赤子の時に面倒を見てもらった母親の姉の家。「荷物一つで。まるで寅さんみたいに」と語った。

 しかし、そこにも居づらくなる。4カ月で高校を中退し、実母の伝手で大阪に出て丁稚奉公をすることに。その後、紆余曲折の末、演劇界のエリート集団、俳優座の養成所に受かるのだが、まさかそんな境遇を経たのち、寅さん映画出演に行きつくとはとても思えない。前田さんはまるで奇跡のようなストーリーを生きた。

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