宮内庁長官に批判され、記者クラブには苛烈な“4文字の言葉”で追及され… 「雅子皇后」が記者会見をなさらなくなって「23年」の歴史的経緯
雅子皇后陛下が12月9日、62歳のお誕生日を迎えられた。それに合わせてご感想が文書で発表され、合わせて医師団の見解も公表された。これは「適応障害」のご病名を公表された2004年以来、毎年のこと(医師団の見解は2011年以来)である。
【写真】スーツをビシッときめて…。2年間の英国留学を終え、帰国した際の雅子さま(1990年、成田空港)
今では知らない向きも少なくないだろうが、皇太子妃時代の雅子さまは、お誕生日に記者会見に臨まれることが多々あった。1993年のご成婚後、1996年に初めてのお誕生日会見を開かれた後は5年続けて、そして(愛子さまご出産直後のため)1年置いた2002年にも記者会見にお臨みになり、記者と向き合われてご自身の肉声で質問に答えられていたのである。外国訪問の前や、皇太子殿下(現・天皇陛下)のお誕生日会見に同席なさることもあったのだ。
しかし、それが途絶えたのは2002年の12月5日のこと。この日行われた会見を最後に、翌年ご静養に入り、2004年には「適応障害」と診断された雅子さまは、以来、23年間の長きに亘って記者会見の場に出ていらっしゃらないのである。
皇室事情に詳しい社会部デスクによれば、「美智子さまも皇后時代はお誕生日の会見をされないのが慣例でしたし、そもそもお誕生日会見となれば単独でのものになりますから、ご病状を考えれば実現は難しいでしょう。しかし海外ご訪問の際は天皇陛下とお2人の会見となりますから、クラブの記者たちはぜひ出ていただきたいと思っていますが、応じられないままとなっている」
なぜ雅子さまは記者会見にお出にならなくなったのか。「週刊新潮」では2年前にその背景を取材し、その裏に2つの“事件”があったことを明らかにしている。以下、それを再録し、令和の皇室と宮内庁、そして記者との関係について考える契機としてみよう。
(「週刊新潮」2023年6月22日号記事の一部を編集の上、再録しました。文中の年齢、役職等は当時のものです)
***
宮内庁長官が雅子さまを批判
雅子皇后が最後に記者会見をなさったのは、今から20年以上前、2002年12月5日に遡る。
「東宮御所ではこの日、12月9日のお誕生日に先立つ雅子さまの単独会見、そして11日に控えていたオセアニアご訪問に際しての皇太子さま(当時。現・天皇陛下)とご一緒の会見という二つが開かれました」
とは、当時を知る皇室ジャーナリストである。
「このうち、ご夫妻で臨まれた会見で雅子さまは『結婚以前は外国に行くことが生活の一部となっていた』『外国訪問が難しいという状況は、適応することに大きな努力が要った』などと、率直にご心情を吐露されていました。ところが、ここから“男児を生むより海外が大事なのか”との批判が起きてしまったのです」(同)
さらに続けて、
「ご出発後の12月12日、今度は当時の湯浅利夫宮内庁長官が、雅子さまのご発言を捉えて『外国訪問をあれだけなさりたかったのかと、正直言って驚いた』と、会見の場で批判したのです。長官はまた『お世継ぎ問題とは小さなものではなく、ご負担の大きい外国訪問を積極的に進めることは難しかった』と、“お世継ぎが最優先”との姿勢をあらためて示したのでした」(同)
[1/2ページ]


