平成男子のミューズ・宮崎あおい 同じ「透明感」でも広末涼子とは何が違う?
年齢の壁を消す「怪物的」生命力 透明感の延命ではなく進化
多くの女優にとって透明感とは、肌の美しさなど若さの特産物であり、加齢とともに自然と薄れていくものだ。しかし宮崎さんの場合、その透明感は年齢によらない。若さが透明感を生んでいるのではなく、透明感という雰囲気が彼女の生活リズムや働き方を形づくり、結果として外見の若々しさまでも維持されてしまうという逆転の構造がある。
世間のイメージと実像は違うといいながらも、宮崎さんが時折語る生活は、外見とのギャップを強調する方向ではなく、むしろ整合性を保つ方向に収まっている。先の「電子レンジを置かない生活」はもとより、「編み物や刺繍が好き」「最近は金継ぎもしている」などなど。あえて手間のかかる暮らしを選ぶ姿勢は、自己主張の強いアピールではなく、「静かで個人的な美意識」として提示される。それが見た目を裏切らないどころか、むしろ透明感を補強しているのだ。
さらに注目すべきは、育児で多忙なはずの時期でも、疲れや消耗をほとんど感じさせないその体力である。4人の子育てをしながら、肌の調子も、表情の軽さも、メンタルの落ち着きぶりも揺らがない。40代に入っても、宮崎さんは若手俳優の「姉」や「同僚」役、あるいは落ち着いた若奥さん役を軽々と成立させる。それでいて母としての経験や成熟が醸す深みもあり、「若さ」と「成熟」という本来なら相反する魅力が一つの体の中で矛盾なく共存している。
「透明感が消えない」というより、「透明感を支える体力と精神力が異様に強い」。その生命力こそが、宮崎さんを同年代の女優の中でも特異な存在にしているのではないだろうか。
なお広末さんは近年のインタビューで、「薄幸で薄命な女性役をあてがわれることが多い」と話していたことがある。しかし宮崎さんに割り当てられるのは、大河ドラマ「篤姫」しかり、健気だが芯の強い女性ばかり。そしてCMでは、やたらと歌わされている。軽快なアイドルソングでヒットした広末さんが歌うCMは少ないのに、歌手として実績のない宮崎さんはやたらと歌い、走り、その生命力の強さを画面の隅々まで発揮しているのである。
もはや宮崎さんは、「童顔の女優」というカテゴリーでは説明できない。「透明感」そのものを拡張し、年齢や生活環境に従来の枠組みを適用できない、独自のジャンルを築き始めている。人生の波に翻弄されても曇らず、出産と子育てをくぐり抜けてもくすまず、年齢を重ねても若さと成熟の両方を失わない。若作りでもなく、美魔女でもない。もっと静かで、もっと強靭で、もっと不可解な、新しいタイプの存在感だ。
今の宮崎あおいさんは、もはや「平成男子のミューズ」どころか、透明感というジャンルを丸ごと飲み込む、静かで恐ろしい「無色透明の怪物」なのかもしれない。
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