50代になって改めて考える「パートナーを失う」ということ…まだ見ぬ“悲しみ”に思いを馳せるのは決して綺麗ごとではない
配偶者が突然いなくなった時をシミュレーションすべき
とにかく「日常」が非常に貴重なものであることをまずは噛み締めた方がいいだろう。私自身は33歳の時、婚約者を失った。鬱病を患っていた彼女は、会社に行けなくなり、結局解雇された。その4ヶ月後に自死する。私自身、当時「赤ちゃん帰り」的な状態になっていた彼女に呆れる面もあったし、希死念慮がやってくる鬱病の本当の恐ろしさを知らなかったため強引に外に連れ出したりして嫌がられた。
彼女が亡くなってからは私自身も仕事をする気になれず、実際に気分が落ち込んで仕事をあまりできなかった。配偶者にはまだなっていなかったものの、あそこで彼女に呆れたことや、彼女を置いて連日飲みに行ったことは後悔した。結局、自分が誰かに対してイヤな振る舞いをすると、将来の自分に、後悔となって襲いかかってくるのだ。
この手のことは、時々通っていた店が潰れた時にも考える。「あぁ、もっと行っておけばよかったのにな」と。店であれば営業最終日になんとか訪れて罪悪感を減らすことはできるが、人間はその最後の瞬間に立ち会えないこともある。
死期が近い配偶者が闘病生活をしていて、「その日」が来ることを感じていた場合は優しく、愛情をもって接することができるだろうが、人は交通事故や心筋梗塞などで突然亡くなることがある。そうすると、その日の朝、口論をしていた場合は一生の後悔となるだろう。
だったら何をすべきかといえば、日々、配偶者がいる人生を、尊いもの、愛おしいものと捉え、仲良くすることである。私は現在妻がいるが(子供はいない)、彼女は月に2回ほど東京へ出張する。時にはタイやカナダにも出張をする。重いパソコンやタブレットをバッグに入れてその小さい身体で「よっこいしょ」と持ち上げる瞬間を見ると、「あぁ、健気な人だ……」と毎度思う。
私のワガママで東京を脱出し、今では佐賀県に住んでいるのだが、もしも彼女が私と結婚していなかったらもっとラクに、移動をすることのない人生が送れたのではないか、なんてことも思う。だからこそ帰ってきた彼女を迎え入れる時は「立派に仕事を完遂したね」と、感謝の気持ちを抱くとともに、その晩の食事は彼女の食べたいものを作る。
とにかく、冒頭で紹介した60代男性の憔悴ぶりを見ていると、なんとしても自分自身の配偶者を大事にしたいと考えるようになるし、彼にもいずれは妻との思い出が悲しみではなく幸せだった時間だったと振り返ることができるようになってほしいと感じるのだ。というわけなので、今、配偶者に対してキツく当たってしまいがちな人は、その人が突然亡くなった場合、いかに悲しくなるかのシミュレーションはしておいた方がいい。
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