ジャイアント馬場との“兄弟タッグ”でマット会を席巻! 「こんばんは事件」ラッシャー木村が“マイクを握らなかった日”

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マイクを持たなくても……

 そして、ラッシャー木村が、マイクを持たなくなる試合が、翌年、もう1試合、訪れた。それは、まさに「最強タッグ」で馬場と組んでの、再びの天龍との公式戦だった。

 1989年11月29日、札幌中島体育センター。カードは馬場、木村vs天龍&スタン・ハンセン。試合は予期せぬ幕開けをする。まだジャンパーも脱いでない天龍が入場して来た馬場に、リング内からトペを見舞ったのだ。臨戦態勢が取れておらず、ガウン姿のまま場外のコンクリートの床に崩れ落ちる馬場。鉄柵に腰を打ち付けたのか、半失神状態で立ち上がれない(※実際、セコンドの応急処置を受け、立ち上がるまで、5分以上を要している)。ある意味、反則と言っていいゴング前の奇襲攻撃。だが、“弟”、木村は戦闘不能の馬場を見やり、即座に意外な行動を見せた。

 Tシャツを脱いで、手にツバをつけ、リングに上がって行ったのだ。「俺1人でもやってやる」の意思表示だったのか。相手は、大袈裟でなく、当時の日米最強タッグと言っていい天龍とハンセンである。だが、木村の決意は本物だった。いきなり往年の必殺技であるブルドッキング・ヘッドロックを天龍に見舞い、ハンセンをロープに振り返してラリアット……。馬場が立ち上がり、タッチする9分過ぎまで、天龍とハンセンの、時に2人がかりの攻撃に決して背中を見せず、正面から対した。

 試合はその唯一のタッチから13分、今度は馬場が孤軍奮闘し、最後はフォール負け。天龍が言うには、「返すと思った」という。しかしながらそれは、馬場が負けを認めたという気持ちではなかったか。後日テレビ放送のあったラテ欄には、珍しく、こんな見出しが躍っている。

「プロレス史に残る名勝負 天龍 ハンセンvs馬場 木村」(1989年12月10日)

“プロレス史に残る”というのは、馬場が、初めて日本人(天龍)にフォールを獲られたという意味を含んでいる。されど、終わった後の馬場の表情は実に爽やかだった。だが、一方で、木村はと言えば……泣いていた。自分が馬場を守れなかったという気持ちだったか。落涙しながらリング下で抱きつく木村の肩を、馬場は優しい笑顔でポンポンと叩いた。

 この日、ラッシャーは、マイクを持たなかった。

 ***

「おっ父(とう)……! 懐かしいなぁ!」

 そう、リング上で寺西に呼びかけられた逸話には、続きがある。懐かしさのあまり、木村がホロリとしかけた瞬間、寺西から強烈な右の張り手が見舞われたのだ。

「フッとこっちの気持ちが抜けた瞬間に来たからね。あれは効いたよ(笑)。『なんだよ、元気でやってんじゃねえか』って」

 試合後にそう語る木村の表情は、ことの他嬉しそうだったという。

 そんな木村が現役時代、口にしていた信条は、「相手が自分に対して手を抜いてるとわかったら、プロレスを辞めたい」だった。

 マイクを持たなかった木村の話を書いた。しかし、筆者にはあの日、天龍とハンセンが待つリングに、単身、向かって行った姿が、どんなマイクよりも雄弁に、彼のプロレスへの思いを物語っているように思うのである。

 寡黙で、しかし、他人を見捨てられぬ心優しい男は、どんな物事にも背中を見せない、真のファイターだった。

瑞 佐富郎
プロレス&格闘技ライター。早稲田大学政治経済学部卒。フジテレビ「カルトQ~プロレス大会」の優勝を遠因に取材&執筆活動へ。現在、約1年ぶりの新著『10.9 プロレスのいちばん熱い日 新日本プロレスvsUWFインターナショナル全面戦争 30年目の真実』(standards)が好評発売中。

デイリー新潮編集部

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