崩壊が進む「軍艦島」を放っておくとこうなる…すぐ近くにある「100年後の軍艦島」の知られざる姿
保存優先度が高いものとは
市がwebに掲載している「世界文化遺産『明治日本の産業革命遺産』構成資産の修復・公開活用計画」によれば、優先して修復するのは「護岸遺構」「擁壁遺構」そして「生産施設遺構」。
島の形を守るために護岸の修復と補強は必須であり、優先されるのは当然であろう。例えば台風によって護岸が崩れた端島小中学校校舎の基礎部分は、ぽっかりと空いた穴から基礎杭が波に洗われる様子が見えていたが、すでに埋め戻され、修復が完了している。このような護岸倒壊のリスクを高める海中空洞部への充填作業、海側からの補強工事、護岸内陸側の排水機能の健全化などが引き続き行われる。「擁壁遺構」については緊急的に修復すべき箇所は存在しないとしている。
また軍艦島は炭鉱だったからこそ存在できた島なので、生産施設遺構を優先して守るのも当然だ。見学通路から見える赤いレンガが特徴の「第3竪坑捲座跡」と「入坑桟橋」などはすでに補修・補強されている。今後、第四竪坑の関連施設や変電所、圧気室などの動力関連施設などが優先的に修復されていく。
操業当時の“世界一の人口密度”を支えた「居住施設遺構」の優先度はこの次。しかも「令和7年9月市議会 環境経済委員会資料」では、居住施設遺構の今後について「世界遺産価値に貢献しない構造物であり」と前置きした上で、「全ての構造物を保全することは不可能であることから一部の構造物を対象に延命措置を講じる」としている。居住施設を全棟残すことはハナから考えていないのだ。
いわば現実的な観点から「端島独特の景観の形成への貢献度が高く、保存の実現性が高い(劣化度の低い)建造物について優先して延命措置を講じる」とし、3号棟、16号棟、65号棟、70号棟(端島小中学校)を優先度の高い構造物として選定している。さらに「このうち3号棟について補修等を行う最優先の対象とする」としている。
島の大部分を占める居住施設遺構であるが、上記以外の建造物については“崩壊やむなし”である。上記の建造物もいつ補修に取り掛かれるかはわからず、手をつけようとした頃には“手遅れ”になっているものも出てくるだろう。これから10年、20年の時が経てば、軍艦島の多くの建造物が崩壊し、建物が密集した景色は間違いなく変わっていく。
約700メートル先にある「100年後の軍艦島」
では建物の延命措置が行われず、多くが崩壊してしまったら、島はどうなるのか。
実は軍艦島の隣に“そうなってしまった元炭鉱島”がある。「100年後の軍艦島」と呼ばれている中ノ島だ。軍艦島から直線距離で約700メートルとすぐ近くにある。古くは炭鉱だったが、世界遺産はなく上陸が難しいため、その存在をほぼ知られていない。
中ノ島を所有していたのは軍艦島と同じ三菱社。同社が中ノ島を入手し、採掘を始めたのは1884年。軍艦島を買収したのは1890年であり、中ノ島では軍艦島より6年も早く本格的な採掘が始まっていた。
しかし坑道での出水があまりに多いため、三菱社はわずか9年で採掘を断念。隣の軍艦島に勢力を注ぐことになった。その結果、元々中ノ島より小さい岩礁だった軍艦島は、埋め立てに埋め立てを重ねてあの見事な姿になった。
仮に中ノ島の採掘が続いていたなら「軍艦島が2つできていたかもしれない」と言うのは、ドラマ「海に眠るダイヤモンド」で軍艦島パートの監修を務めた黒沢永紀氏だ。黒沢氏は「軍艦島伝道師」として、軍艦島に関する書籍、写真集を多数出版、監修してきた研究家である。
この中ノ島、廃坑後は軍艦島で働く人たちを陰からこっそり支えていたのだが、このこともあまり知られていない。大正時代には、隣の高島にあった発電所から軍艦島まで電気を送る、海底ケーブルの中継地として使われた。また少ない土地に人口が密集する軍艦島には設置できなかった火葬場は、中ノ島に置かれた。葬儀の際には船で中ノ島に渡り、火葬が終わると遺骨を持ち帰ったという。また1962年(昭和37年)には、軍艦島島民の憩いの場として「中ノ島水上公園」がオープンしている。
[2/3ページ]

