18歳で「試験結婚」、大バッシング、監督業への挑戦…大女優「田中絹代」の華麗で孤独な67年【昭和の女優ものがたり】

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女性監督への道

 田中は若い頃から監督をすることを夢みていた。しかし当時は、女優が監督をすることに否定的だった。その代表的な存在が、田中を大女優の地位に押し上げた溝口監督だ。「田中の頭では監督はできない」とまで発言している。「自分の女優」が監督をすることへの嫉妬心もあったのかもしれないが、実は田中に長い間好意を持っていたのだ。

 しかしその思いを伝えることはなかった。新藤兼人監督は溝口から直接「ぼくはね、田中くんに惚れているんだが、どうにもならなくてね、困っているんだよ」(新藤兼人著『ある映画監督の生涯 溝口健二の記録』)と告白されている。

 そんな困難な状況に手を差し伸べたのが、小津安二郎監督だった。監督第1作の「恋文」(1953年)の評判が良かった田中の元に、第2作「月は上りぬ」(1955年)の話が小津から来たのだ。当時あった「五社協定」の縛りをはねのけて、小津は東奔西走したという。(五社協定=各社専属の監督、俳優の引き抜きおよび貸し出しの特例を禁止する申し合わせ。後に「六社協定」となり、1971年に消滅)

 田中は生涯に6本の監督作品を残しているが、どの作品も古さを感じない秀作だ。今だったら、どんな作品を撮るのだろうか。

病床でも見せた女優としての執念

 田中の女優人生で、最後に輝いたのが熊井啓監督の「サンダカン八番娼館 望郷」(1974年)だ。生活が苦しくて南方の島に売られた女性を「からゆきさん」と呼ぶ。女性史研究家の三谷(栗原小巻)は天草で知り合った老女・サキ(田中絹代)から「からゆきさん」だったこれまでの人生を聞くうちに、深い信頼感で結ばれる。

 最後に2人が別れる時、サキは三谷が使っていたタオルを欲しいと願う。「これを見ておまえを思い出すから」と、タオルを握りしめて慟哭する姿は胸をうつ。それは田中自身が歩んできた別れや孤独な人生と、重なっているように見える。

 田中は1977年3月に脳腫瘍で亡くなる。67歳だった。「人間の條件」3部作(1959~1961年)などで知られる小林正樹監督は、田中のまた従弟であり、入院から亡くなるまで田中に寄り添った。病院に行くと「座ったきりでも女優をやれるかしら」と女優としての執念を見せていたという(「文藝春秋」1989年9月号)。しかし、その頃の田中にはほとんど現金がなかったことがわかる。

 秋晴れの10月、田中が長年住んでいた鎌倉山を訪ねてみた。鎌倉駅からバスで20分、「絹代御殿」のあった近くで降りる。田中は1949年、近所に3万坪の土地を購入しているが、貯金がなくなり晩年は切り売りしてしまったという。

 最後に残った土地には今、みのもんた氏の家が建っている。そのみの氏も今年亡くなってしまった。

 春は桜並木が有名なところだが、この時期は観光客もいなくて静かな場所だ。おそらく夜は深閑としていることだろう。田中はここで、ひとり孤独をかみしめて生きてきたのだろうか。小さな身体で坂道を一歩一歩上る背中がみえるような気がした。

稲森浩介(いなもり・こうすけ)
映画解説者。出版社勤務時代は映画雑誌などを編集

デイリー新潮編集部

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