18歳で「試験結婚」、大バッシング、監督業への挑戦…大女優「田中絹代」の華麗で孤独な67年【昭和の女優ものがたり】
戦中戦後も続いた人気
戦中の田中出演作品で、近年さらに評価が高まっているのが「陸軍」(1944年)だろう。戦時中、陸軍省は映画界に対し、国策映画の制作を要請していた。しかし、木下惠介監督はそれを逆手に取り、見事な「反戦映画」にしあげた。
息子が徴兵された母親(田中絹代)は、出兵行進が行われる日、自分は涙が出てしまうから行かないという。しかし行進の音が聞こえると心が動き、街中に飛び出す。ここからの10分間が圧巻だ。
カメラは息子を見つけようと群衆の中を走る田中をひたすら追い続ける。転んでは立ち上がりまた走る。ようやく息子を見つけると、その背中に手を合わせるシーンで終わる。言葉はほとんどなく、田中を追うことだけで死線に赴く息子を思う母親を表現している。ひたすら感動的だ。
戦後になってからも田中の人気は続く。しかし自分の後の若い女優たちの存在を常に気にかけていた。そうした中で、1949年、アメリカ映画界との交流が目的の親善使節の話が飛び込んできた。
絶頂から奈落へ、そして復活
無事に親善使節の役目を果たした約3カ月後、羽田空港に帰国した田中の姿に多くの日本人は驚く。サングラスに毛皮のコートで第一声が「ハロー!」。そして銀座をオープンカーでパレードし、歓声に応えて投げキッスをしたのだ。この振る舞いが新聞で報じられると、今でいう大バッシングが起こる。
当時はサンフランシスコ講和条約が締結される前で、日本はアメリカの占領下にあった。敗戦の傷の癒えない日本人を激怒させてしまったのだ。田中はひどく落ち込み、鎌倉山の家に籠もり崖から飛び降りようかとも考えたという。
そんな田中が見事に復活したのは溝口健二監督の作品だった。その高い芸術性と様式美は他の監督の追随を許さないが、この頃は田中同様に低迷していた。その溝口が用意した作品が「西鶴一代女」(1952年)だ。御所につとめる武家の娘が、恋愛騒動で追放された後島原遊廓に売られ、最後は夜鷹となり彷徨う流転の生涯を描いている。
溝口の得意なワンシーン、ワンショットの流麗なカメラワークが光り、田中も最高の演技をみせた。続いて出演した「雨月物語」(1953年)とともに、田中は溝口の手によって演技者として頂点を極めたのだ。
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