エースだったのにまさかのクビ宣告!? 自由契約になった「スター選手列伝」
因果はめぐる
NPB史上初の3度の三冠王を達成した落合博満も、巨人時代に自由契約を経験している。
1996年、42歳になった落合は、長嶋巨人の4番打者として打率.301、21本塁打、86打点を記録し、“メークドラマ”Vに貢献した。 だが、同年オフ、西武・清原和博のFA宣言が、運命を大きく変える。
落合、清原ともに一塁でポジションが重なることから、清原と交渉した巨人の球団幹部は「一塁は空けておくよ。落合は解雇する方針だ」と伝えたという。
その後、“解雇発言”も含めて、巨人側の態度に不信感を抱いた清原が、10年契約で年俸も巨人の5倍という破格の好条件を提示した阪神に心を動かされると、深谷尚徳球団代表は慌てて「来年は白紙と言ったが、解雇とは言っていない」とアピールした。
しかし、この発言は「清原の入団が決まるまで落合の処遇は白紙」とも受け止められ、落合も「失礼な話だ。オレが要らないなら、10月でクビを切れば良かったんだ」と怒りをあらわにした。
騒動に発展したことを受け、長嶋茂雄監督も、11月20日に清原の入団が内定すると「(落合)本人も不快感や誤解もあるだろうし、いろいろな話があるから、ゆっくりと時間を取る」として、落合宅に2度電話を入れるなど、話をこじれさせたフロントの尻拭いに奔走した。
そんな矢先、落合は「清原と自分の使い方で、長嶋さんの悩む姿を見たくなかった」と自ら自由契約となる形で、同28日に退団した。
日本ハムに移籍した落合が成績を落とし、98年限りで引退したことから、「最後の2年間を“清原の指南役”として、巨人で全うさせてやりたかった」と残念がるファンもいた。 その清原も、2005年シーズン中に巨人から非情の戦力外通告を受け、オリックスに移籍した。まさに因果はめぐるである。
温情措置
“平成の怪物”松坂大輔も、2度にわたる自由契約を経験している。
最初はメジャーから日本球界復帰後、右肩痛により、ソフトバンク在籍3年で登板わずか1試合に終わった2017年オフ、育成選手または「コーチ登録」で復活を目指すプランを提示されたが、支配下を外れることをよしとせず、自ら自由契約を望んだ。その後、テストを経て中日に移籍し、翌18年は6勝4敗でカムバック賞を手にした。
だが、翌19年、右肩故障の影響で登板2試合、0勝1敗に終わると、球団が残留させる意向だったにもかかわらず、恩人の森繁和SDらの退団を理由に「僕もいちゃいけないな」と自ら自由契約を申し出て退団した。
このとき、すでに古巣・西武への復帰が水面下で内定していたともいわれるが、西武でも脊椎を痛めるなど故障に悩まされ、2021年10月19日の日本ハム戦での引退登板の1試合だけでユニホームを脱いでいる。
実質チームのエースなのに、自由契約になったのは、ロッテ時代の小宮山悟である。
7勝に終わった1999年、小宮山は10月15日に球団幹部とFA権行使について話し合い、チームの若返りを図る球団側からまさかの戦力外通告を受け「来シーズンの戦力構想に入っていない」と言われた。
小宮山自身も「来年は僕を必要としてくれるチームでやりたい」と自由契約の道を選び、移籍先を探した。 FA権を行使しなければ、球団側に補償金は入ってこないが、10年間エースを務めたことに対する“温情措置”だったともいわれる。
小宮山は同一リーグの球団に移籍しないことを条件に、メジャー移籍も視野に入れながら移籍先を探し、12月19日に国内移籍の希望球団である横浜に移籍した。翌2000年には、チームトップの12勝をマークした。
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