監督交代で「クビ寸前」から確変 一方、監督留任で現役引退も…プロ野球「監督人事」がもたらした“幸運と不運”

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 今オフ、DeNA・相川亮二、ヤクルト・池山隆寛、ロッテ・サブローの新監督3人が誕生し、来季の優勝、上位進出を目標に手腕を振るうことになった。そして過去には監督人事の結果、思わぬ幸運に恵まれたり、まさかの不運に見舞われた選手たちも存在する。【久保田龍雄/ライター】

近藤さんじゃなければ、間違いなくクビ

 監督交代により、クビ寸前から一転レギュラーの座を掴んだのは、中日時代の平野謙だ。

 名商大からドラフト外で中日入りした平野は、2年目の開幕直前に投手失格の烙印を押され外野手に転向し、3年目の1980年からスイッチヒッターに挑戦した。

 だが、ようやく手応えを感じはじめた同年、整理リストに入れられた。リストを作成した中斗夫監督は長期政権になるとみられていたため、通常なら、クビは免れないところだったが、同年、チームが最下位に沈み、同監督が引責辞任したことから、一発大逆転のチャンスが転がり込んできた。

 後任の近藤貞雄監督は、平均的な選手より一芸に秀でた選手を好んだ。整理リストを再チェックしたところ、俊足堅守の平野が目に留まった。試合後半の守備固めに起用しようと、もう1年残すことを決めた。

 中日投手コーチ時代に現在ではすっかり定着した投手分業制をいち早く導入するなどアイデアマンの近藤監督は、最下位のチームを建て直すため、打撃と守備のスペシャリストを使い分ける“アメフト戦法”を実行した。

 スタメンは打力重視のオーダー、勝ち試合の後半はメンバーをガラリと守備要員に入れ替えるというユニークな起用法がハマり、平野は翌81年、守備固めを中心に110試合も出場、4年目で1軍定着を果たした。

 さらに82年には2番打者としてリーグ最多の51犠打を記録し、打率.288、4本塁打、33打点、20盗塁でチームの8年ぶりリーグ優勝に貢献した。
運命を拓いた監督人事に、平野は「監督が近藤さんじゃなければ、間違いなくクビでした。しかも実際、試合で使ってくれましたからね。いくら感謝してもし切れない方です。『プロ野球選手・平野謙』の生みの親と言ってもいいでしょう」(自著『雨のち晴れがちょうどいい。』ベースボール・マガジン社)としみじみ回想している。

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