監督交代で「クビ寸前」から確変 一方、監督留任で現役引退も…プロ野球「監督人事」がもたらした“幸運と不運”
何であいつがキャッチャーをやっているんだ
近鉄、西武などで主砲を務め、通算465本塁打を記録した土井正博も、高校を中退して1961年に近鉄に入団したが、たった1年で解雇を通告されている。
だが、シーズン後に千葉茂監督が退任し、後任の別当薫監督に長距離打者としての素質を見出されたことから、「18歳の4番打者」として売り出され、63年から18年連続で二桁本塁打を記録する大打者になった。
ヤクルト時代の野村克也監督との出会いが、野球人生を劇的に変えたのが、飯田哲也だ。
1987年にドラフト4位でヤクルト入りした飯田は、捕手経験が浅かったため、当初ブルペンでチームのエース級の投手の投げる球を満足に捕球することができなかった。
それでも、3年目には1軍で代走も含めて22試合に出場したが、秦真司、中西親志、八重樫幸雄に次ぐ4番手捕手であり、正捕手の座は依然として遠かった。
そんな矢先の89年オフ、関根潤三監督の後任として野村克也監督が就任し、それが、眠っていた才能を一気に引き出した。
飯田の俊足に目を留めた野村監督は「何であいつがキャッチャーをやっているんだ?」と疑問を抱き、翌90年は捕手登録であったが、代走要員としてベンチ入りさせた。
そして、4月21日の広島戦、5回に笘篠賢治の代打に起用された飯田が川口和久からプロ1号を放つと、そのまま守備経験のないセカンドを守らせ、シーズン終了まで正二塁手として起用し続けた。
さらに翌91年、外野も守れるという触れ込みだった新外国人のレイが「オレはセカンドしかやらない」と駄々をこねたため、野村監督は飯田をセンターにコンバートした。
すると、高校1年まで外野手だった飯田は、水を得た魚のようにスーパープレーを連発し、同年から7年連続でゴールデングラブ賞を受賞するなど、“日本一のセンター”の名をほしいままにした。
「この2度目のコンバートで私は天職を得ることができたと思います」(自著『ノムラ野球の申し子が明かす!本当に強くなる野球の実戦力』ベースボール・マガジン社)。もし捕手を続けていたら、古田敦也の陰に隠れて埋もれていたかもしれず、まさに運命を変えた出会いだった。
上司の存在が大きなウェートを
一方、退任するはずだった監督が一転留任したことで、割りを食ったのが、近鉄時代の金村義明だ。
1994年、首脳陣の起用法などに不満を抱き、13年間在籍した近鉄から出て行く決意をした金村は、翌年中日の監督に復帰予定だった星野仙一氏から水面下で約2倍相当の年俸1億円の3年契約を提示され、FA権の行使を宣言した。
ところが、同年の中日がシーズン終盤に巨人と熾烈な首位争いを演じ、V逸ながらシーズン最終戦の“10・8決戦”までもつれ込んだ大健闘が評価されて、高木守道監督の留任が決定する。
この結果、金村は前出の好条件を「星野が何を言ったかわからないが、ウチは金がない」と反故にされ、FA宣言したのに、現状維持で中日に移籍する羽目になった。
また、同年7月にロッテを事実上戦力外になった宇野勝も、シーズン後半、星野氏から「まだやる気があるなら帰ってこい」と声をかけられ、古巣・中日への復帰が内定していたが、これも高木監督留任で幻に……。それでも現役続行を望んで自由契約になったが、移籍先が決まらず、寂しく現役引退となった。
サラリーマンの世界でも上司との相性によって重用されたり干されたり、運命が大きく変わるように、プロ野球の世界も上司の存在が大きなウェートを占めていることが、よくわかる。
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