山本由伸や田中将大だけじゃない!野手から転向して大成した投手列伝
やるだけやって
日米通算112勝139セーブを記録した斎藤隆も、東北高時代は一塁手として1987年夏の甲子園に出場。東北福祉大にも内野手として入学した。
だが、2年秋、明治神宮大会出場をかけた北海道代表チームとのダブルヘッダー第1試合終了後、早めにグラウンドに出て、ブルペンで遊び半分に投球していたことが、斎藤の野球人生を大きく変える。
たまたまバックネット裏から見ていた同大の伊藤義博監督は、何か感じるものがあったようで、午後の第2試合で斎藤を代打で起用し、凡退したら投手に転向させることを決めたという。
そんなことなど夢にも知らない斎藤は、走者を一塁に置いて代打で出場し、神宮大会でのベンチ入りを目標に安打を狙ったが、打ち損ねて二ゴロ併殺に倒れてしまう。
その日を境に、斎藤はグラウンドに入ることを許されず、投手陣と一緒にランニングをする日々が始まった。
“野手失格”の烙印を押された挫折感から、一時は「野球を辞めよう」と思い悩んだが、「どうせ上手くいくはずはないけど、ピッチャーを『やるだけやって』野球も大学も辞めてやろう」と開き直った」(自著「37歳で日本人最速投手になれた理由」 光文社新書)ことが、吉と出る。
1年後の1990年秋、明治神宮大会では投手としてベンチ入り。4年時には150キロ近い速球を投げられるようになり、日米大学野球のメンバーにも選ばれた。そして、ドラフトでは、中日と大洋が1位指名で競合の末、大洋でプロ野球人生がスタートした。
結果的に4‐6‐3の併殺打が、投手としての輝かしき成功をもたらしたと言えるだろう。
シンカーがなかったらサラリーマン
高校時代は三塁手が本職ながら、努力の末、“背番号5のエース”になったのが、西武入団後、シンカーを武器に通算82勝55セーブを記録した潮崎哲也だ。
鳴門高入学後、当初テニス部に入部を考えていた潮崎は、同学年の野球部員が少なかったことから、「レギュラーになれるかも」と野球部を選んだ。入学時は捕手だったが、コントロールの良さを買われて、2年時に野手兼投手となった。
そして、3年春に“逆カーブ”のような独自のシンカーを覚えたことが、投手としての才能を一気に引き出し、監督から「大事なところで潮崎行くぞ」と言われるまでに成長した。
夏の徳島県大会準々決勝の鳴門工戦で初先発し、6安打11奪三振で完封勝利を飾った。以来、実質エースとなり、決勝では春のセンバツを制した池田に敗れたものの、松下電器入社後、シンカーに磨きをかけ、1990年にドラフト1位で西武へ。
計8度の優勝に貢献した“天才サイドスロー”は、現役当時「シンカーがなかったら、今頃普通のサラリーマン」と語っていた。







