山本由伸や田中将大だけじゃない!野手から転向して大成した投手列伝
ドジャースの山本由伸は、ブルージェイズとのワールドシリーズで4勝中3勝を挙げる活躍を見せ、シリーズMVPに輝いた。“世界一の投手”は、実は高校入学時に内野手だった。そして、野手から転向し、プロ入り後に大成した投手は、山本以前にも存在した。【久保田龍雄/ライター】
1日4食の“食トレ”
まずは山本から紹介しよう。中学時代は岡山県の東岡山ボーイズでプレーし、主に二塁を守った。打順は2番か6番で、投手としては2番手だった。
当時の指導者が「まさかプロになるとは思わなかった」と回想する“普通の野球少年”は、都城の森松賢容監督との出会いによって、投手としての才能を大きく開花させることになる。
以前岡山県内の高校でコーチをしていた森松監督は、東岡山ボーイズの練習を見学した際に、山本が目に留まり、「ウチに来ないか」と勧誘した。
山本も父の故郷が宮崎県だったことや、チームの先輩も同校に進学していたことなどが決め手となり、野球に専念できる環境を求めて、進学を決めた。
2014年春、内野手として入学してきた山本のキャッチボールを見た森松監督は、ボールの質や投げる感覚に非凡さを感じた。本人に「投手、野手のどちらが好き?」と尋ねると、「両方やりたいです」と答えたので、内野手と投手の二刀流に挑戦させた。
1年夏の県大会では9番サードで起用したが、これは足と下半身を使って一塁へ送球する三塁手の動きが、投手の良い鍛錬になるという考えからだった。
1年秋から投手に専念した山本は、1日4食の“食トレ”でパワーアップし、入学時に120キロ台前半だった球速も、秋に最速140キロ、2年時の8月には151キロまでアップした。16年のドラフトでオリックスに4位指名され、世界一への第一歩を踏み出すことになった。
あれが捕手か? いい投手だぞ
捕手からのコンバートで知られるのは、日米通算200勝を達成した田中将大だ。
小学校時代に兵庫県伊丹市の軟式チームで坂本勇人(現・巨人)とバッテリーを組んでいた田中は、中学時代に肩の強さを買われ、投手も兼ねるようになった。
そして、「自分がよりいい選手になるために」と進学先に選んだ駒大苫小牧の香田誉士史監督に投手としての素質を見出される。
ブルペンで投げる田中を見た香田監督は、スライダーとカーブに非凡な才能を感じ、捕手をさせながら、投手として育てようと考えた。
1年の秋、新チームで3人併用の捕手を務めていた田中は、2004年11月14日の明治神宮大会準々決勝、羽黒戦で、テスト登板の機会を与えられ、公式戦で初先発初登板を果たした。連続暴投などで計4点を失ったが、6回を7奪三振、MAX138キロを計時するなど、素質の片鱗をのぞかせる。
野球関係者は「あれが捕手か? いい投手だぞ」「何十年に一人の逸材」と絶賛し、香田監督は「言い過ぎじゃないか」と戸惑ったが、けっして言い過ぎではなかった。
翌春のセンバツに背番号10でベンチ入りした田中は、1回戦の戸畑戦でいきなり1失点完投勝利を記録した。同年夏の甲子園決勝では最速150キロをマークし、チームの大会2連覇に貢献するなど、一歩ずつ着実に大投手への階段を上っていった。
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