「一発屋」「ゲテモノ歌手」と叩かれた「森進一」のハスキーボイス…救いとなった「歌謡界の大御所」の至言「歌は語れ、せりふは唄え」
夕刊紙・日刊ゲンダイで数多くのインタビュー記事を執筆・担当し、現在も同紙で記事を手がけているコラムニストの峯田淳さんが俳優、歌手、タレント、芸人ら、第一線で活躍する有名人たちの“心の支え”になっている言葉、運命を変えた人との出会いを振り返る「人生を変えた『あの人』のひと言」。第42回は、前回に続いて歌手の森進一さん。波乱万丈な人生を送ってきた森さんの意外なエピソードを明かします。(前後編の後編)
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常に波乱の人生
「地図のないところを歩いてきた」
最近の森進一(77)に関して印象に残ったのは、今年7月に出演した「徹子の部屋」(テレビ朝日)で語ったこの言葉だ。
生い立ち、歌手デビュー後になめた辛酸、闘病、ショッキングな出来事、売名行為などと中傷されながらも長年続けた「じゃがいもの会」のチャリティ……。筆者が関わった「人生ひたすら」という60回を超える連載には森のすべてが凝縮していた気がする。
森が他の歌手と一線を画すのは、これでもか、というくらいのヒット曲の多さだ。デビュー曲の「女のためいき」に始まり、「盛り場ブルース」「花と蝶」「年上の女」「港町ブルース」「おふくろさん」「襟裳岬」「冬のリヴィエラ」「北の螢」など、多くの人が口ずさむことができる名曲が並ぶ。
デビューまでの道のりも、その後の歌手生活も、森の人生は波乱に満ちている。
デビュー当時から評価が定まるまで、森が悩んだのはその独特のかすれたハスキーボイス。今となれば、それこそが森の最大の持ち味なのだが、当時は受け入れてもらえなかった。歌手になるきっかけを最初に作ってくれたのは5週勝ち抜いた歌番組の審査員だったチャーリー石黒。レコード会社のオーディションに連れて行ってもらうと「ダメだよ、あんな声では」と否定された。
落胆の日々は続いた。そんな中で、鹿児島に残した母親や妹弟に仕送りをしなくてはいけないと焦る気持ち、だが、歌手になる道筋は見えない……。ついに切羽詰まった森は石黒に、歌手になれるか「早く言ってください」と泣きながら訴えたという。
それから作曲家・猪俣公章との出会いがあり、偶然も重なった。66年に「女のためいき」でデビューに漕ぎつけたが、同じレコード会社からデビューが決まっていたのが、やはりハスキーボイスの青江三奈だった。「女のためいき」は青江と「ためいき路線」として発売され、森はヒット歌手の仲間入りをすることができた。
「お前なんか歌手になれるわけがない」
しかし、なぜか当初から森に対してマスコミの風当たりが強かった。「私の声質もあってのことでしょうが、『一発屋』『ゲテモノ歌手』などと評された」という。要するに、マスコミは森に容赦なかった。森はそんなマスコミに傷つきながらも、「今に見ていろ」と反発心を募らせた。皮肉にも、それがかえって歌手として踏ん張る原動力になったわけだが。
デビューの翌67年に発売されたシングル「盛り場ブルース」。作詞したのは同業者の先輩だが、ある時、言い争いになり、こうバカにされた。
「お前なんか歌手になれるわけがない。お前が歌手になったら、俺は東京中を逆立ちして歩いてやる」
どちらが正しかったかは言わずもがな。どうも森は叩かれやすい、言われやすいところがあるのだろうか。
しかし、周囲が森を貶めようとする人ばかりではなかったのは、本当に救いだった。歌謡界においては雲の上の存在ともいえる作曲家の古賀政男には、68年発売のアルバム「影を慕いて」の収録で励まされた。
このアルバムには古賀の代表曲の一つ「人生の並木道」も収録された。♪泣くな妹よ~と歌っている時に森は、鹿児島にいる妹を想って、こみ上げるものを堪えることができなかった。それを見た古賀がハンカチで目頭を押さえながら、「歌は生き物、今のでいいんだ」と慰めた。涙声で唄った「人生の並木道」はそのまま収録され、「影を慕いて」は60万枚を超える大ヒットになった。
古賀の「歌は心で唄うもの」「歌は語れ、せりふは唄え」という言葉も「大切な宝物」となった。
森は長年、病魔に苦しんだ。連載3回目でC型肝炎のことを明かし、その後繰り返しこの病気といかに闘ってきたかを語っている。
C型肝炎とわかったのは20代、今から50年近く前のことになる。その時すでに長く生きることができない、それを踏まえて仕事のことも家族のことも考え、人生設計してきたという。
〈弱みを見せたくないという思いもあって公表はしませんでしたが、毎日、言いようのない疲労感やだるさ、片頭痛などと闘いながらの30年でした〉
連載の2年前にも肝臓に異常な数値が見つかり、新たな治療法を勧められた。チャレンジしたところ、脱毛、うつ症状など激しい副作用には悩まされた。しかし、医師からは「ほぼ完治」といわれ、それは「人生観が変わるほどの出来事」だったそうだ。ちなみに、その後、森は肺がんも克服している。
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