投手経験1年でプロになった「小林宏」本人が明かす“覚醒の瞬間” オマリーとの14球は「一人のバッターとの勝負でしかない」(小林信也)

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 中学を卒業後、小林宏は、野球の強豪で知られる崇徳高校に進学した。

「甲子園に行きたいとも思っていなかったので、野球部には入りませんでした」

 中学では野球部。だが中3夏まで身長162センチと小さかったせいか、甲子園は他人事だった。略歴に〈高校では軟式野球部〉とあるが、「あれ、違うんです」と小林は笑った。

「2年の夏まで帰宅部で、いつも友だちと遊んでいました。仲良くなった友人が野球経験もないのに『軟式野球部に入る』と言うので」

 小林も一緒に入部した。

「ほんとに草野球。試合にも自転車で行って終われば遊びに行く。そんな感じ」

 硬式野球を始めたのは、大学に入ってからだ。

「たまたま受かったのが広島経済大学。それほど強くないしと思って入部したら、練習はきつかった(苦笑)」

 小林の背は中3夏から急に伸び、高3夏には182センチになっていた。ショートを守っていた大学3年の夏。

「4年のエースが肩を痛めて、代わりに投げろと言われたのがきっかけです。秋のリーグ戦に優勝して、明治神宮大会に出た。初戦で慶応に7回コールドで負けたんですが、球が速かったので、『あのピッチャー誰だ?』ってなって、4年の春から、試合のたびにスカウトが来ていました」

 投手経験わずか1年の小林がドラフトの注目選手になった。会議の前は、〈関東の球団が2位で指名する〉との見方が有力だったが、ふたを開けるとオリックスに1位指名を受けた。

「10日で上げる」が

 そして3年目の1995年に伝説の“オマリーとの14球”を演じるのだが、あの場面は、「一人のバッターとの勝負。それ以上でも以下でもありません」と語る。結果的にヤクルトに日本一を奪われ、トーマス・オマリーがMVPに輝いたのだからそれも当然か。

 小林の人生を変えた覚醒の時は、別にあったという。

「あの年の夏です。僕はプロに入って3年目。2年間で4勝はしましたが、1軍と2軍を行ったり来たり。5月に上がったけど先発予定が最初は雨、次は千葉マリンの強風で中止。それで2軍落ち。山田久志コーチは『10日で上げてやる』と言ってくれたけど、1軍に戻れたのは7月でした」

 1日の西武戦で先発のチャンスをもらった。後で分かったが、監督の仰木彬は小林先発をかたくなに拒んだ。「小林はストライクが入らん」、渋る仰木を説得してくれたのは山田コーチだった。

「この日ダメなら一生この程度のピッチャーで終わる、自分の中では人生を懸けた勝負でした」

 西武打線を抑え、シーズン初勝利。小林は〈人生の勝負〉に勝った。8月にはダイエー戦で初完封。7月からの3カ月で8勝を挙げて優勝に貢献した。

 迎えた日本シリーズ。1月に阪神・淡路大震災に遭い、「がんばろうKOBE」と誓い合って臨んだシーズンを制したオリックスは、本拠の神戸にセの覇者ヤクルト・スワローズを迎えた。だが2連敗で神宮に舞台を移した。

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