卒寿を迎える「常陸宮さま」…秋篠宮さまにも通じる「天皇家の次男」という宿命

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比較される存在

 幼少期は上皇陛下と共に、クエーカー教徒のヴァイニング夫人を家庭教師とし、65年には上皇陛下に続いてバチカンをご訪問。ローマ法王と面会を果たしていたため、天皇を最高位の祭司とする神道の信奉者からはミッション系の聖心女子学院出身の上皇后陛下と共に「お二方は、実はクリスチャンなのではないのか」と邪推されたこともあった。

 宮内庁OBはこう話す。

「ご兄弟をあたかも不仲であるように印象づけようとする意図がうかがえる。全く根も葉もない噂話でしたが、こうした心無い噂が流されること自体が、皇位継承権を持つご兄弟の宿命なのかもしれません」

 それどころか皇位継承順位が法律で規定されていたわけではなかった時代から、天皇と長弟は何かと比較されてきたことも事実である。

 だが古墳時代、庶民の家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気付き、民衆の生活がままならない困窮状態にあることを悟って、納税を3年間も免除したことで「聖帝」と称賛された仁徳天皇の長弟だった額田大中彦皇子のケースは実際どうだったか。皇位には関心を示さず、夏でも溶けない氷を兄に献上して、喜ばせたとのエピソードが伝承されている。

 守貞親王は平安時代、源平合戦の狭間に立たされて、6歳で壇ノ浦の水中に沈み命を落とした安徳天皇の長弟だった。皇太子(皇太弟)ではなかったものの皇太子とみなされ、兄と共に源氏からの逃避行を経験。本人の意思とは無関係に不遇な時期を過ごした。ようやく政治の表舞台に立ったのは、息子が即位し天皇を経ないまま上皇となってからだった。

 守貞親王について、宮内庁書陵部での勤務が長い元幹部はこう語る。

「幼少の時代は、よく分からないまま異母兄と運命を共にした親王は、後年は政争の渦中に身を置いた人物ですが、兄だけが命を落とし自分は生き延びたことに無念を覚えていたとの説もあるようです」

 また、中御門天皇の長弟で、天皇陛下の“直系の祖先”となった光格天皇の祖父である閑院宮直仁親王は、お世継ぎ不在の事態に、天皇の候補を輩出することを責務とする伏見宮家、有栖川宮家、旧桂宮家の3宮家がいずれも遠縁になりすぎたという事態に直面していた。そこで、新たに閑院宮家を立ち上げることで天皇家の血筋と権威を支え、兄を全面的にサポートする役割を買って出ている。

 さらに現在に目を向けると、秋篠宮さまは男系男子の継承が法律で規定されているために「皇位継承者が不在となる事態が迫っていたことを受け、佳子さまご生誕からすでに10年間を優に超えていたにもかかわらず、3人目のお子さまをもうけることを決断されたと言われています」(同OB)

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