下着姿で“グラウンドの神様”に土下座…「昭和の明大野球部」伝説をOBの「広澤克実氏」が明かす「島岡イズムは今も健在です」

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 第1回【ネット動画で話題沸騰!「昭和の明治大学野球部」の真実をOB「広澤克実氏」が激白…御大こと「島岡吉郎監督」が部員の前で“刀”を出した瞬間】からの続き──。明大野球部の歴史は故・島岡吉郎氏抜きでは絶対に語れない。現在、野球部の拠点は東京都府中市にあり、施設全体は「明治大学内海・島岡ボールパーク」、全選手が住む寮は「島岡寮」の名が付けられ、島岡氏の多大な功績が顕彰されている。(全2回の第2回)

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 島岡氏は1911(明治44)年、現在の長野県高森町に生まれた。朝鮮鉄道の技師をしていた父親から「東京の大学で学べ」と命じられて12歳で上京。複数の旧制中学校で退学処分を受けるなど転校を重ねたが、明治大学政治経済学部予科に入学すると落ち着いた。8代目の応援団長に就任するなど非常に目立つ学生だったようだ。

 大学を卒業すると証券会社に勤務。1942年、海軍に応召され入隊するが、数か月後に招集が解除され、特務機関員としてマカオに駐在する。イギリスやフランス向けの物資を日本に横流しさせる極秘任務を担当していたという。終戦を迎えると仲間と共に50トンの漁船でマカオを脱出し、五島列島にたどり着いたというエピソードでも知られている。

 意外なことに島岡氏に野球の経験は全くなかった。だが指導力が評価され、1952年に監督に就任する。多くのプロ野球選手を育てたことでも知られるが、東京六大学リーグでは15回、大学選手権では5回、日米大学選手権でも2回の優勝に輝き、監督しても傑出した記録を残した。

 1989年、島岡氏は77歳で死去。読売新聞は教え子の一人だった元巨人の高田繁氏に依頼し、談話による追悼記事を掲載した。(註)

「全員グラウンドの神様に謝れ」

 高田氏は《御大は子どもみたいな人だった》と人柄を評し、《試合に勝てば新宿のビアホールで率先して大騒ぎ。負ければその怒りから、合宿所全体がシーンと静まり返るしかなかった》と振り返る。

 明大野球部が早大野球部に敗れた日の深夜。御大は高田氏に「全員、下着だけの姿でグラウンドに集まれ」と命令したという。

《雨の降るなか、全員が大急ぎで出ると、「早稲田に負けたのは“人間力”を発揮できなかったからだ。全員グラウンドの神様に謝れ」。それぞれが各ポジションに散り、頭を地面にすり付けて「グラウンドの神様、申し訳ありませんでした」と、何度も続けた》

 現在の基準に照らし合わせれば、完全なパワハラだ。しかし続く一節を読むと島岡氏が単なる“暴君”ではないことに気づく。

《もちろん、御大も一緒にやっているので、だれ一人文句もいわず黙々と続けた》──島岡氏も全力でグラウンドの神様に謝っていたのだ。

 島岡氏の死去から35年以上が経過し、現在の明大野球部は往時とは全く異なる指導方針で練習が行われている。

 明大野球部OBの広澤克実氏は2003年に現役を引退すると、2006年から08年まで阪神の一軍打撃コーチを務めた。その後、09年ごろから明大野球部の指導を手伝うようになったという。

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