選手の7割が「最も偉大なホームラン打者」と回答 新庄監督も絶賛した「バリー・ボンズ」が“薬物疑惑”でも一目置かれるワケ(小林信也)

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日米野球での“写真”

 私がボンズを非難しきれないのは、2度の日米野球で関わりがあるからだ。

 70年春、ウィリー・メイズらが来日した時、「注目の若手」と紹介されたのが3年目のボビー・ボンズだった。その子バリーがメジャー・リーガーになったと聞いて、驚きと共に親近感を抱いた。

 ボンズは2000年の日米野球で来日した。試合前の打撃練習の時、私は主催者側の広報スタッフの立場でフィールドに降りて選手に話しかけ、写真を撮っていた。たまたま近くに来たボンズに「撮っていいか」とカメラを向けると、彼は茶目っ気たっぷりに笑い、「オレが撮ってやる」と私のカメラに手を伸ばし、一眼レフのファインダーをのぞいて写真を撮ってくれたのだ。それは家宝の一枚になるはずだったが、誰に見せても「ボンズが撮った証拠がない」と笑われた。ただ和やかな交流が心に刻まれている。その瞬間だけ言えば、「いいヤツ」だった。

 ボンズに聞いた打撃論も印象に残っている。

「打席に立った時点で、打者と投手の勝負はもう決まっている。打席で投手を圧倒するのが勝負のカギだ」

 日本的な間合いを強調するボンズに目を見張った。

 ボンズは、パイレーツからジャイアンツに移籍する時、「どうしても背番号24を付けたい」と希望した。ジャイアンツではメイズの永久欠番。通常なら無理な話だが、当のメイズが承諾し、球団も認めた。ところが、ファンや世間の反発が高まり、ボンズは父が付けていた25番を選んだ。その25番はいまジャイアンツの永久欠番になっている。

小林信也(こばやしのぶや)
スポーツライター。1956年新潟県長岡市生まれ。高校まで野球部で投手。慶應大学法学部卒。大学ではフリスビーに熱中し、日本代表として世界選手権出場。ディスクゴルフ日本選手権優勝。「ナンバー」編集部などを経て独立。『高校野球が危ない!』『長嶋茂雄 永遠伝説』『武術に学ぶスポーツ進化論』など著書多数。

週刊新潮 2025年10月30日号掲載

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