沖縄「首里城正殿」復元は間もなく最終段階へ 6年前の全焼直後、関係者が明かした「とてつもない喪失感」と「復活への決意」を振り返る

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絶望から立ち上がった関係者たち

 2019(平成31/令和元)年10月31日、沖縄のシンボルとして威容を誇っていた首里城は、暗闇を紅蓮の炎で照らしながら姿を消した。正殿や北殿、南殿など主要な7棟が焼失。被害エリアの総面積は約4200平方メートルに及んだ。

 首里城の歴史は火災と復元の歴史でもある。琉球王国時代に3度燃え、1928(昭和3年)からの「昭和の大修理」を経て、戦時中の沖縄戦で焼失。戦後は1958(昭和33)年に第二の坊門「守礼門」などが復元され、1986(昭和和61)年には正殿の復元を含む本格的な復元プロジェクトが立ち上がった。

 後に「平成の復元工事」と呼ばれるこのプロジェクトは、2019年2月、正殿裏手にある「御内原(うーちばる)エリア」の工事を終えていた。1992(平成4)年の正殿完成、2000(平成12)年の世界遺産登録(琉球王国のグスク及び関連遺産群)を挟み、33年にわたる一連の作業はこれで完了するはずだったが、そのたった8カ月後、5度目の焼失に見舞われたのだった。

 闇の中で燃え上がる炎は、長年の作業を支えた人々に計り知れない絶望をもたらした。だが一方で彼らは、当時の「週刊新潮」に対して早くも“復活への決意”を語っていた。そして彼らはその言葉の通りに立ち上がり、首里城では今、正殿の復元工事が終盤に差し掛かっている。2025年10月には素屋根(仮設の屋根)の撤去が完了し、鮮やかな赤で彩られた外観が姿を現した。内部工事も着々と進み、すべての完成は2026年秋を予定している。

「平成の復元工事」、2019年の焼失、そして「令和の再建」へ。第1回では関係者たちが襲われた絶望、そしてその先へと突き動かした熱き思いを、2019年当時の記事で振り返る。

(全2回の第2回:以下、「週刊新潮」2019年11月14日号「33年の『プロジェクトX』が一夜で灰燼に! それでも『首里城』再建を誓う『琉球史学者』『宮大工』『漆芸家』」を再編集しました。文中の肩書、年齢等は掲載当時、6年前のものです)

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首里城は巨大な“漆器”だった

 平成の復元に際し、王朝時代の歴史考証をはじめ全体指揮を担ったのは、琉球大学名誉教授(72)=琉球史=の高良倉吉氏である。

「城が焼けるさまを自宅の前から眺めて『本当に現実なのか』と、とてつもない喪失感に襲われました」

 高良教授はそう嘆きながらも、往時を振り返る。

「正殿の再建にあたって多くの学者と議論した結果、大戦で破壊された首里城ではなく、琉球王朝時代の姿を復元しようとなりました。我々は“中古でなく新車に”を合言葉にプロジェクトを進めていましたが、沖縄戦で当時の資料も失われてしまった。国内をくまなく探し回った結果、王家である尚(しょう)家が琉球処分で東京に移住させられた時、重要な資料も一緒に運ばれていたことが分かったのです」

 なかでも重宝した資料は、

「おもに『百浦添御殿普請日記』と『寸法記』。いずれも王府の公式資料で、1864年に行われた王国時代最後の大規模工事の記録です。後者は鎌倉芳太郎という沖縄文化の研究者によってまとめられたもので、材料ごとの寸法まで記されていた。それらを読み解くうち、首里城は桐油で塗装されていたこと、琉球漆器の塗り師が参加していたことも判明しました。つまり城自体が巨大な“漆器”だったというわけです」

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