阪神・西純矢は続けるか!? 勝ち星を挙げながら「打者転向」で成功を勝ち取った男たち
プロ通算12勝の阪神・西純矢が7年目の来季から打者転向することになり、発表直後に「西純矢」がトレンド入りするなど、話題を呼んでいる。過去にもプロで投手として勝ち星を挙げた後に、打者に転向して成功した男たちが少なからず存在する。【久保田龍雄/ライター】
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もう1回チャンスがあれば
プロ野球草創期から1950年代にかけては、投手としてもある程度実績を残した強打者が多く、通算11勝の川上哲治(巨人)、通算60勝の西沢道夫(中日)、通算34勝の藤村富美男(大阪)、通算65勝の関根潤三(近鉄)らが知られている。
1970年代以降では、7年目に打者転向し、11年目で開花した1972年のセンバツ優勝投手・“ジャンボ”仲根正広(政裕。日大桜丘)の名が挙がる。
将来のエースとして期待され、ドラフト1位で近鉄入りした193センチの右腕は、コーチからティーバッティング用の重いボールを使って投げるように指示されたことが災いし、肩を痛めてしまう。
その影響で実働4年、通算30試合登板の2勝8敗にとどまり、投手最終年(1978年)にはボールを1メートル投げることすらできなくなった。
「野球を辞めよう」と思い悩んだ矢先、西本幸雄監督から打者転向を勧められ、「僕には野球しかない」と再挑戦を決意した。
初めはフリーバッティングのボールにも詰まってしまうほど苦労したが、「体で覚えろ」という山本一義コーチの指導で、1日1000回の素振りに励み、81年のシーズン終盤に打者として1軍に初昇格した。最終戦となった10月4日の阪急戦では、ラスト采配の西本監督に贈るプロ1号を記録した。
83年には主に3番打者として自己最多の106試合に出場し、14本塁打、44打点と遅咲きの花を咲かせた。
1982年夏の甲子園優勝投手・畠山準(池田)も、南海入団2年目の84年に32試合に登板し、6月27日の阪急戦で完封勝利を挙げるなど、5勝12敗、防御率4.24を記録し、さらなる飛躍が期待された。
だが、その後は伸び悩み、88年に投球フォーム改造に失敗して腰を痛めたことをきっかけに、打者に転向した。
チーム名がダイエーに変わった翌89年には61試合に出場し、3本塁打を記録も、90年は出番が激減し、オフに戦力外通告を受けた。
まだ26歳。「もう1回チャンスがあれば」と、ダイエー時代に指導を受けた大洋・竹之内雅史コーチの伝手で入団テストを受け、大洋へ。横浜時代の93年からレギュラーに定着し、オールスターにも3度出場するなど、大きく開花した。
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