阪神・西純矢は続けるか!? 勝ち星を挙げながら「打者転向」で成功を勝ち取った男たち

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初登板初勝利

 プロ初勝利の直後に内野手に転向し、息の長い選手として活躍したのが、仁村徹だ。

 東洋大で通算29勝を挙げた“東都のエース”も、中日入団後は鳴かず飛ばずで、1年目の1984年10月5日の阪神戦でリリーフしただけの登板1試合に終わった。

 その試合は、内野手転向を前に投手として最後の記念登板だったといわれる。だが、4点ビハインドの7回1死から敗戦処理として登板すると、8、9回に味方の猛反撃で大逆転。5年前の夏の甲子園で対戦した牛島和彦のリリーフを得て初登板初勝利を記録するという幸運に恵まれた。

 翌85年5月の内野手転向後は「このままプロで生きていけるのか」と悩んだが、86年、ロッテに移籍した田野倉利長の穴埋めに宇野勝の控えの遊撃手として1軍に呼ばれたことが、野球人生の転機となる。

 キャンプ中、山内一弘監督が打撃重視で三塁の座を競わせていた尾上旭、藤王康晴ら4人が打撃で結果を出せなかったことから、「これといったバッターがいない以上、守りを選ぶ」と仁村に目を向けたのだ。

 同年はサード、ショートを守り、36試合に出場。星野仙一監督が就任した翌87年に規定打席に到達し、打率.287、11本塁打を記録するなど、9年間レギュラーを務めた後、ロッテでも一塁、DHなど打線の中軸として35歳までプレーした。

セ・リーグ新記録となる12暴投を記録

 高卒1年目にプロ初勝利を挙げながら、打者に転向し、通算2432安打を記録したのが、石井琢朗だ。

 1989年に足利工からドラフト外で大洋に入団した石井は、投手不足のチーム事情から開幕1軍入りを果たすと、主にリリーフとして17試合に登板。プロ初先発となった10月10日のヤクルト戦では、9回1死まで3失点に抑えて初勝利を手にした。

 だが、高校の時点で「プロでは打者で」と考えていた石井は、「たとえ野手でダメだったとしても、好きなことをやって辞めたい」と91年オフ、須藤豊監督に「野手に転向させてください」と直訴する。

 石井を貴重なリリーフとして評価していた須藤監督は当初「話にならん」と取り合わなかったが、本人の意思が固いことを知ると、最後には折れた。そればかりでなく、翌春のオープン戦から石井を1軍に帯同させ、シーズンでも69試合に起用してくれた。

 その期待に応え、93年からレギュラーに定着した石井は、盗塁王4回、最多安打2回、名球会入りを果たすなど球史に残る大選手になった。

 2000年以降では、ヤクルト・宮出隆自も、「将来のエース候補」と期待されながら、肘や膝など故障の影響で通算6勝にとどまり、2002年から打者へ転向した。06年に規定打席に到達し、打率.275、9本塁打、59打点をマークした。

 同じくヤクルトのドラ1左腕・雄平(高井雄平)は、1年目の2003年に5勝を挙げる一方で、セ・リーグ新記録となる12暴投を記録した。07年にリリーフで52試合に登板し、3勝1セーブ12ホールドを記録したが、制球難を克服できず、高校通算36本塁打の打力を生かすため、2010年から打者に転向した。

 14年から外野のレギュラーに定着し、通算882安打、66本塁打と長く活躍。投手としても阪神・西より多い通算18勝を挙げている。

 西も高校時代から非凡な打撃センスを持ち、プロ入り後も2022年に本塁打を記録しているだけに、今回紹介した先輩たちに続きたいところだ。

久保田龍雄(くぼた・たつお)
1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。最新著作は『死闘!激突!東都大学野球』(ビジネス社)。

デイリー新潮編集部

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