「野田聖子」はなぜ「日本初の女性首相」になれなかったのか? “同期”の「高市早苗」に追い抜かれた決定的な理由

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1993年の衆院選で初当選

「野田さんは1960年9月生まれ、高市さんは1961年3月生まれと、生まれ年こそ違いますが学年は一緒。しかも、国会議員に初当選したのも93年に行われた第40回衆院選の同期なんです。この時の衆院選は中選挙区制で行われた最後の選挙であり、同じ初当選組には安倍晋三氏、岸田文雄氏、立憲民主党代表の野田佳彦氏といった後の首相経験者もいます。また、参議院から衆議院に鞍替えして初当選した人には、選挙後の国会で首班指名を受ける日本新党の細川護熙氏、東京都知事となった小池百合子氏もいますから、後の日本に大きな影響を与えた選挙となりました」(政治部記者)

 ちなみに、文部科学大臣や外務大臣などを歴任した田中眞紀子氏も同期の一人である。

「無所属で出馬した眞紀子さんは当選後すぐに自民党入りしましたが、同じく無所属だった高市さんは自由党や新進党を経て自民党に入りました。一方、自民党公認で当選した野田さんは、当時、女性の自民党衆議院議員がいなかったため、自身について“自民最多当選の女性衆議院議員”と言っています。初当選から自民公認という自負があるからでしょう。永田町では“政界の聖子ちゃん”と呼ばれて人気になり、彼女こそ“初の女性首相”候補と言われていました」(政治部記者)

 実際、出世は早かった。98年には小渕内閣で郵政大臣に抜擢。37歳10カ月は、当時、史上最年少の閣僚記録だった。ちなみにこの時、高市氏は自民党に入ってわずか2年しか経っていない下っ端議員である。さらに、野田氏は自民党総裁選にも早くから出馬を表明していた。

「2015年の総裁選では、政権を奪還し再び総理大臣に就任した安倍さんとの対決を表明しました。ところが、推薦人の20名が集まらず断念。再び安倍さんに挑もうとした18年の総裁選も、安倍さんが凶弾に倒れた後の20年の総裁選も、推薦人が集まらず出馬を断念しました」(政治部記者)

 ようやく推薦人が集まり総裁選に出馬できたのが21年だった。

高市氏との直接対決

「岸田さん、河野太郎さん、高市さん、そして野田さんの4人の選挙となりました。最初の投票では岸田さんが256票、河野さんが255票、高市さんが188票、野田さんが63票となり、決選投票で岸田さんが選ばれました」(政治部記者)

 同じく21年の総裁選が初出馬となった高市氏は、昨年に次いで3回目となる今回の総裁選で当選。今のところ野田氏との直接対決は21年の総裁選のみだ。

「野田さんは昨年に続き今回の総裁選にも出馬を表明したものの、やはり推薦人が集まりませんでした。出馬を表明した6回のうち、野田さんが実際に立候補できた総裁選は1回だけとなっています」

 結局“初の女性首相”は高市氏となった。なぜここまで差がついたのだろう。政治アナリストの伊藤惇夫氏に聞いた。

「高市さんが総理大臣にたどり着いた要因は、安倍元首相が彼女を高く評価して総裁選でも支援に回ったことで、一挙に存在感を高めたことが背景にあると思います。一方、野田さんにはそうした後ろ盾がいませんでした」

 野田氏の場合、小泉純一郎首相が掲げた郵政民営化法案に反対したことで、05年に自民党を離党するはめに。翌年、安倍首相によって郵政造反組の復党が叶ったが、前述の通り総裁選では安倍氏に楯突いた。

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