菊地亜美、知られざるバイト下積み時代 「ハムの糸巻き」やティッシュ配り…執念で勝ち取った「アイドリング!!!」
自分で履歴書を送付
中学生になると、芸能界入りを夢見るようになり、自分で履歴書を書いて、親の承諾書と一緒に芸能事務所に送っていました。周りには、タレントや女優になりたいという子はいなかったので、「こんな田舎で何言っちゃってるの?」という目で見られることもありました。でも、自分の中では変わらず、芸能界への憧れは持ち続けていました。
この頃から、ちょこちょこオーディションを受けていました。毎月『月刊デビュー』という雑誌を買って、開催されているオーディションを探していました。
ただ、なかなか壁が高くて……。いいところまで行っても、「3次審査からは東京です」とか「書類はなしで、面接は東京です」というものが多く、断念せざるを得ませんでした。当時は飛行機代も高く、交通費だけで往復20万円くらいかかることもあったんです。受かるかも分からないのに、そんな大金を出して東京に行くことはできませんでした。
中学1年生の時に一度、受かったら『ニコラ』に出ることができるという事務所のオーディションがあり、「絶対行きたい」とお願いして、東京まで行きましたが、結局落ちてしまいました。
それでも、高校を卒業したら、たとえ仕事がなくても東京に行きたい、と思っていたので、たとえ落ちても、次に「受かればいいな」というくらいの感覚で受け続けていました。中学時代に受けたオーディションは50個ぐらいだったと思います。
高校1年生の時、ついにオーディションに受かることができました。ただ、地元の高校は芸能活動が原則禁止で、長期の休み(冬休みや夏休み)だけならOKという条件でした。それでは本格的な仕事はできないので、次の年、高校2年生で東京に上京しました。
ずっと言い続けていた夢だったので、親は「ああ、ようやく一歩踏み出せたね」という感じで、応援してくれましたね。
上京してからは、オーディションや仕事が不定期に入るため、派遣のバイトしかできませんでした。土日しか働けなかったんですが、ティッシュ配りやスーパーでの試食サンプリングスタッフ、厨房のホール係、工場でハムに糸を巻く作業など、色々なアルバイトを経験しました。
そして、高校3年生の時に「アイドリング!!!」のオーディションに合格して、芸能活動が本格的にスタートしました。
第4回【夜の仕事や泊まりの仕事は「NG」に…菊地亜美、超売れっ子から「断ることも大事」と思うようになったワケ】では、菊地が仕事に対する考え方の変化について語っている。
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