「テレビはNHKのみ」「徹底的なスパルタ式」 ノーベル賞受賞・坂口志文教授を生んだ父の“英才教育”

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 世界的な研究者は、逸話のスケールもまた桁外れである。さる6日、ノーベル生理学・医学賞を受賞した坂口志文(しもん)・大阪大学特任教授(74)。30年前の大発見が見事に結実したわけだが、少年時代は、厳しいながらも国際色溢れる環境に身を置いていたという。

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いとこに「もっと勉強しろ」

 坂口教授の受賞理由は、自己免疫の過剰な反応を抑える「制御性T細胞」の発見。6日の会見で、子どもたちへのメッセージを求められた際には、

〈興味のあることを大切にする。それを続けることで新しいものが見えてきて、気が付いたら面白い境地に達する〉

 そう述べていた。まさに珠玉のエールといえようが、そうした「境地」を極めたご本人はどのような環境で育ったのだろうか。

 坂口教授の故郷は滋賀県長浜市。高校教諭の父と、医師家系で同じく教育者だった母との間に、3兄弟の次男として生まれた。同市で開業する医師でいとこの安井一清さん(73)が言う。

「志文さんと私は母親同士が姉妹で、私は志文さんより2学年下。同じ長浜北高校に通っていたのですが、高1の春から半年ほど、坂口家に下宿していた時期があります。お父さんの正司(しょうし)さんは当時、その高校の校長先生でもあり、あちらの3兄弟と私は、自宅では徹底的、それこそスパルタ式で勉強させられました。お父さんは、高校の進学率を上げるために一生懸命だったのです」

 中でも安井さんが驚かされたのは、

「家庭の方針だったのか、志文さんは、テレビはNHKしか観ませんでした。私は漫画も読むし民放の番組も好きだったのですが、志文さんには『もっと勉強しろ』と怒られたものです」

スカルノ大統領との縁

 父親の正司さんは京都帝大哲学科出身。西洋哲学の研究者を志していたが陸軍に徴兵され、終戦で復員後は教職に。自宅には海外の原書が並び、「シモン」の名も聖書にちなんだという。

「フランス語が得意という記事が出ていましたが、正司さんは何カ国語も話せるマルチリンガルな人でした。戦時中は、のちにインドネシア初代大統領になるスカルノさんの世話をしたとかで、大統領の来日時に二人は会っているのです」(安井さん)

 坂口教授の兄で元高校教諭の偉作(いさく)さん(76)が続ける。

「英仏独伊と語学が堪能だった親父は日中戦争の頃から敗戦処理まで、陸軍の連絡将校として8年間従軍していました。1942年に日本軍がインドネシアに進駐し、降伏したオランダ軍と停戦交渉で接触したのが親父でした。同じ時期、独立運動を率いていたスカルノさんとも出会っています。ただし当時、スカルノさんは憲兵隊から“コミンテルンの一派ではないか”と疑われ、身の危険もあったため親父が2カ月ほど面倒を見ていたと聞きました」

 それを恩義に感じた大統領は、59年6月の来日時、正司さんと再会を果たしている。同年6月17日付朝日新聞夕刊には、

〈坂口元中尉と歓談 スカルノ大統領〉

 との見出しで、同日に二人が帝国ホテルで対面したことが写真とともに報じられている。記事によれば、42年3月にスマトラ島でオランダ軍が停戦し、自由の身となった大統領と正司さんが接触、ジャワ島に移るまでの間、

〈占領初期につきものの誤解や行き違いのなかで同博士(注・大統領)の世話をみた〉

 とある。それでも偉作さんは、

「家での親父は、まさしく“地震カミナリ火事オヤジ”の世界でしたけれどね」

 そう振り返るのだ。

 ちなみに坂口教授は高校卒業後、1浪して京大医学部に入学しており、

「現役の年は学生運動の影響で東大の入試が中止となり、全国の秀才が京大に集まったものだから志文は落ちてしまったのでしょう。その後は自宅で浪人生活を送っていました。当時は予備校に通うには京都まで出なければならず、とても通えなかった。かといって下宿すれば炊事や洗濯に時間を費やされる。“宅浪”は効率的だったのです」(同)

 とのことで、前出の安井さんも、

「浪人中は、自分で生活のリズムを作って勉強に励んでいました」

 弛まぬ努力で信念を貫く姿勢は、こうした環境で培われたのである。

週刊新潮 2025年10月23日号掲載

ワイド特集「我が世の春」より

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