「ボクは試験台みたい」 初の沖縄出身プロ野球選手「安仁屋宗八」が背負っていたもの(小林信也)
「責任は重い」
甲子園では広陵に4対6で惜敗。安仁屋の投球は注目を集めた。卒業後、兄に誘われノンプロの琉球煙草に入った。大分鉄道管理局の補強選手として都市対抗に出場。敗れたが、強豪・日本生命を相手に好投し、プロの目に留まった。
「大分の捕手の人が『スリークォーターだからシュートが有効じゃないか』と教えてくれたんです」
覚えたてのシュートが打者たちのバットを次々に折った。当時はドラフト制度のない自由競争。先を越されてはまずいと、パスポートを持っていた広島のスカウトがいち早く沖縄に渡り、熱心に安仁屋親子を説得した。高校卒業1年目、安仁屋19歳の秋だった。
“沖縄からのプロ1号”とあって安仁屋はファンの期待を浴びた。新聞の取材にこう語っている。
「ボクがプロ野球で伸びれば、後輩もやりやすいし、ボクが失敗すると後輩にまで影響する。ボクは試験台みたいで責任は重い」
安仁屋のプロ入りは彼一人だけの挑戦ではなかった。
身長176センチ、体重56キロ、ガリガリの体を見て白石勝巳監督は、「本当に野球やっとったんか」と首をかしげた。安仁屋は自信を失う。
「ブルペンで並んで投げると、先輩はえらく球が速い。なのにまだ一勝もしていないと聞いて、自分にはとても無理だと思った」
沖縄訛りもあり、最初は誰とも話ができなかった。そんな安仁屋を案じ、松田恒次球団社長が特例で1カ月、父親が合宿所で暮らすことを許してくれた。プロ入り後の豪快伝説を知る者にとっては意外な話。だが、それほど本土の暮らしと沖縄の間に距離があったのだ。
デビューは早かった。64年6月14日の巨人戦で安仁屋はプロ入り初勝利を挙げた。4安打完投。王は1安打、長嶋は無安打に抑えた。
「ON(王、長嶋)から見逃し三振を取りたい、それが夢でした。なかなか取れなかった。三振だと思っても“長嶋ボール”“王ボール”があって、主審がストライクと言ってくれない(苦笑)」
巨人キラーとして
ところがそれは安仁屋の勘違いだった。後になってファンに教えられた。初勝利の時、長嶋から三振を奪っているのだ。
3年目の66年7月31日には巨人相手に9回2死まで無安打無得点。あと一人の場面で黒江透修に三遊間を抜かれたものの堂々の1安打完封。ただ、翌日の大見出しは《常勝堀内ついに土つく》だった。巨人の新人投手・堀内恒夫が開幕から無敗の13連勝で、話題をさらっていた。その堀内の前に立ちはだかったのが、通算119勝のうち、34勝を巨人から挙げた“巨人キラー”安仁屋だった。
[2/2ページ]


